[BlueSky: 699] Re:661 :共有地の悲劇


[From] GENNGOROU@aol.com [Date] Tue, 31 Aug 1999 13:03:19 EDT


広木さんへ。

                   ゲンゴロウです。

共有というと、マンションなどの土地の共同所有が頭に浮かび、
阪神大震災の倒壊マンションの事後協議の難しさをが、
念頭に浮かんでいました。ずーと、考えていました。
確かに、環境は全生物の共同財産ですね。
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広木さん(661)にて:
>自然環境」というのは、人間にとって単なる「資源」でしかありません(どのよう
>な「資源」であるか、それは人それぞれまちまちでしょうが)。その資源をどれだけ
>利用するか、それは個人に与えられた自由であり、また、「課題」であると思います。
>いわば環境は、総ての人間が共有する「財産」なのです。そこで、その財産に、どれ
>だけ投資し、どれだけ収穫を得るか、その収支のバランスが、人間個人間の「かけひ
>き」になります。

広木さんの、「自然環境は人間にとって資源」のお話、とても考えるものがありました。
広木さんの提示してくださった考えは、私にはインパクトがありました。
環境をあえて資源として捉えて、さらに、環境を全生物の資源ともとらえず、
人類の共通の資源として捉えたときに、この「共有地の悲劇」は、
考えさせられるものがありました。

で、私としては、こう↓思います。
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人間社会で、「やくざな人間」というと、「ルールを守らない連中」と
いうことになり忌み嫌われているようです。
人間には「やくざ」というルールを守らないものを蔑視する言葉があることから
推測すると、人間には「ルール=共同の利益を守るための規則」を守ろうとする
社会的な本能があるようにおもえてなりません。

つまり、
「個々人の自制」を考えると「自制」という戦略はまずいと思いますが、
「いいかげんに自制をしないと(=やくざをすると)制裁を加えるぞ」
という集団自制の戦略はすでに、人間が共同生活をはじめたときから
はじめられている気がします。

そして、この「集団の自制」は、個々人の「自制しなければ」という思考に
支えられていると思います。
「自然環境」という言葉が使われている背景には、「資源」という人間中心の捉え方
ではなく「全生物の共同の財産」という意味を言葉に託しているような気がします。
それを、また「資源」でしかないと、戻してしまうと、なにか、
もったいない気がしてなりません。

あ!もう少し。。

「集団自制の戦略」とは、「みな、自制をしようとしているんだ」という
例の集団催眠みたいなものだと思うのですが。やはり、人の自制を信じないと
始まらないような気がします。
私は、「やくざ」な人間の誕生も、人を信じないことから「芽」を出すと
考えています。
みんなで、「やくざ」を嫌えば「やくざ」も大手を振って歩けないはずです。
それでも「やくざ」はいるでしょうが、、それは、想いが少ないからだと
思います。

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ゲンゴロウ










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