[BlueSky:05959] Re:


[From] "genngorou" [Date] Wed, 7 Jul 2004 00:24:17 +0900


ゲンゴロウです。

あいかわらず、draidさん、ワサビがたっぷりと利いたお寿司
という感じのことを言われるので、暑気ばらいになります。
(私は理屈っぽいから、冬向き?)

> > > 多数決では、他にも選択肢があり得るのではないか、ということを
> > > 念頭に置きつつ、どのような選択肢が示されているか、その選択肢
> > > の背景には、何があるのか、観ておく必要があるように思われます。

driadさん:
> つまり多数決では他を殺しちゃうので
> どこまでいっても自決しかないんでしょ

人の集団の行く末を決めるのに多数決しかないのか?!
と思うとき、「多数決では他を殺す」は、きびしい考えですが、
確かに、そう言い切ってしまってもよいような気になります。
「民族自決」なども、先進諸国の他殺という横暴に対して出
てきた考えなのかもしれません。やはり、多数決は横暴な
方法であると、いつの時代も考え返す必要のあることだと思
います。その上に、討論の必要性、他の選択肢の模索など
という可能性も出てくるのだと思います。

> > 多数決に際し、選択肢が先にあり、あたかも、それ以外の
> > 選択肢がないと思い込んでしまう場合があるのですね。
>
> くりえいてぃびてぃがいるってことでしょ

どうも、人は、何もないところから新しいことを考えるという
ことは出来ないようなので、いろいろな人の意見に触発され
たり、反論したりする方法で考え「くりえいてぃびてぃ」が可能
となるのかもしれません。
そういった意味では、draidさん的だと「くりえいてぃびてぃ」
に磨きがかけれるのかもしれないなどと思います。
でも、みんながdraidさんになったら、誰がまともな投稿する
んだ!ってことになっちまうでしょう。
draidさんは、うらやましい役回りに回われて「いいな〜」など
と、変なことを考えてしまいました。

> > 現行憲法が「戦後のもらい物」と考える人がいるようですが、
> > もともと明治憲法も、もともと「もらい物」の様な気がします。
>
> 貸衣装でしょ
> ちょいと纏えばほーら列強諸国の仲間入り…

なるほど。もらってもいないということですね。
なるほど、そうかもな〜。ほんとそうかも。。

> > 自分で作った物と、もらい物では、その物への理解に雲泥
> > の違いを生んでしまうのは当然。
>
> 雲泥も何も和魂のまんまでしょ

なるほど。「まんま」なのですね。。
が、和魂を知らない私には、どんなふうに「まんま」
なのか気になるところです。

> > > 教訓11: 人間の本質は変えられない
>
> だから念仏往生なんでしょ…

むずかしい。。。

> ----- Original Message -----
> [BlueSky:05949] Re: ラインホールド・ニーバーの祈り
>
> > 「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
> :
> > ********
> > > 同行達を前にして、親鸞は、「地獄になど落ちないよ」なんていう、
> > > あらゆる人間の奥底に潜む上昇志向をくすぐるような、甘っちょろ
> > > いことは決して言わず、「地獄落ちでも構わない」と言い放つ。恐
> > > ろしいほどの「仏(ぶつ)の教え」に対する信頼である。
> > ********
>
> 信頼じゃなくて信仰でしょ
> 構わないんじゃなくてやっぱり嫌だからせっせと念仏するんでしょ
 
 思うに、「恐ろしいほどの仏(ぶつ)の教えに対する信頼」が
信仰というものなのでしょう。
 ただ、信仰は信頼の上に成り立つと言っても、親鸞の様に
教えを理解した人には信頼ということも可能ですが、教えを
理解できない者には、信頼は出来ないのだから信仰しかな
いのかもしれないです。
知っている親鸞のそれは信仰ではなく信頼かもしれません。
知らない者は親鸞を信頼するのかもしれません。そう考えて
みると、それが親鸞信仰となるのかもしれません。
そう考えれば、実は信頼と信仰は似ているとも言えそうです。

> > 私の印象では、念仏さえ唱えれば、誰でも極楽へ行けちゃうのよ、
> > というお話ではなく、善人であろうとしてきたのに、自身が至らぬ
> > 人間であるということを思い知らされた人を、その動機、経緯に寄
> > り添い、本人が、理想の自分と現実の自分とのギャップ、記憶の嘘
> > を見つめ良心と和解する、というか、自分自身を受け入れる過程が
> > 「救い」であるように思われます。
>
> 受け入れただめだめ人間なんだからとにかく念仏でしょ…

「受け入れる」ということの難しさよ・・・。(つくづく。。。)

> > 昔は、現代の言葉より多くの言葉があるように思えます。
> > それだけに、もしかすると、今以上に複雑な考え方が、
> > 昔にはあったのかもしれません。
>
> もしかしなくても肚の据わり方の次元が違うんでしょ…

平安時代、貴族は現代よりも多くの言葉を駆使していたことを
考えると、平安時代なんかに私が生まれていたら、貴族は神に
見えていたように思います。

> そもそも祈りと念仏も次元の違う行為でしょ…

たしかに、似ている様に見えて違う。
念仏は教えを読むことらしいので・・・
しかし、そうだとすると、
違うと見えて実は同じなのかもしれない。
人々の念仏も、元は祈りだったのかもしれないし、
祈りも、人々が何度も読めば念仏になるのかもしれない。。。






__________________________________________________
Do You Yahoo!?
http://bb.yahoo.co.jp/


▲前の記事へ ▼次の記事へ △記事索引へ △青空MLトップへ

(注)この記事が最新である場合,上記「次の記事へ」はデッドリンクです。