[BlueSky: 5764] Re:5747 自然史探求


[From] "suka" [Date] Tue, 3 Feb 2004 20:53:50 +0900

Fukushimaさん ゲンゴロウさん 荻野さん 
和尚さん 中澤さん みなさん
                           須賀です。

みなさん、コメントや情報をいただき、ありがとうございます。

Fukushimaさん:
> エコツーリズム的な旅の手法については、旅行代理店やゲーム機メーカー(?)
> によって商品化の企画開発もいろいろ行われているようです。

なるほど、面白いですね。わたしの前のメール[BlueSky: 5745]には書ききれ
ませんでしたが、このわたしのアイデアのきっかけのひとつとして、実は

梅棹忠夫『情報の文明学』(中公文庫)

で展開されている考え方があります。自然史の研究・学習やエコツーリズムなど
は、梅棹さんが言っている広い意味での「情報産業」の一種としてとらえると
考え方の整理がしやすくなる、というのがわたしの着想で、ご紹介いただいた
企画開発のお話は、そのことをわかりやすいかたちでうらがきしてくれる事例
であるように思いました。

梅棹さんのいう「情報産業」は、
   (コンピュータ関連産業だけをさすものではなく、)
「人間と人間とのあいだで伝達されるいっさいの記号の系列」、さらには
「各種の感覚器官にうったえかける情報のすべて」までをふくんだもの
としてできるだけ広い意味に「情報」をとらえ、
それに関わるあらゆる産業をひっくるめていうことばです。
ですから、マスコミ、出版業などはもとより、旅行案内業、「映画や芝居、
見世物のたぐい」、教育、宗教、ファッション、「一坪農園」、鉄道などまで
ふくんでいます。

そのうえで、
人類の産業の歴史を「農業の時代」、「工業の時代」、「情報産業の時代」
の3段階を徐々に移行するものとして整理し、現在を「情報産業の時代」
の本格的なはじまりの時期としています(最初の論考は1960年代の前半
に発表されていて、たいへん先見性に富んだ考えとされています)。

・現在の日本はいちじるしい工業主義が支配しており、工本主義が反動
 イデオロギー化するおそれがある、とか、
・「情報」の価値が相対的に高くなり「物質」や「エネルギー」の価値がひくくなる
 社会へ移行しつつあるのが現代である、とか、
・農業生産物はすでに食料ではなく多様な情報を満載した情報産業商品である、
  など、このメーリングリストで話題になっているいろいろなテーマに関連した
 論考もあり、今よんでもわたしには面白い本です。

それで、この本をよんでわたしが考えたのは、自然体験やエコツーリズムなど、
「情報産業」という都市的な世界とは一見そりが合わなそうな自然派の活動が、
むしろその側面をとりいれることで可能性をひろげることのできる領域がかなり
あるのではないかということでした。

自然という(加工された情報になる前の)実体の世界に身体的にふれる領域が
ガッシリあることで、情報だけがひとり歩きしがちな今の社会のもたらすリスクを
やわらげる効果もあり、それは今の社会でもとめられているものでもあるのでは
ないかと。

(書かれた時代のせいもあるのでしょうか、梅棹さんの本では「脳」や「身体」
といったことばが多用されているわけではありませんが、そういう視点をも
ふくみうるものとして議論は展開されています。)

キャッチコピー風にいうとしたら、情報産業論の環境論的な読み直しに
ひとつの手がかりがあるのではないか、ということになるでしょうか。

それを社会のなかに実際につくっていくにはどうしたらいいか、というのが
わたしのお話したテーマだということになります。

Fukushimaさん
> 地に足のついた運営主体と旅のノウハウを持つ旅行代理店との関わりをどうする
> かも検討対象なのかも知れないと思いました。

>  しかし、商品化によって「地域の文化や自然」をお客様の「消費の対象」とし
> ていくだけではなく、その過程において、どうすれば「地域の文化や自然」の保
> 護・育成に役立てさせられるかを常に念頭に置いておくことが大切ではないかと
> 思います。

そうですね。社会の全般的な傾向として「情報産業」化は今ではもう避けられない
流れとしてすすんでいるようにみえます。そこにはいい面だけではなく、いろいろ
なリスクがあることでしょう。その状況のなかにあって、地域の運営主体が文化
や自然の保護・育成に役立つことをめざしてどんな動き方をしていくのか。これは
大きなテーマですね。

わたしは、自分の個人的な関心に重心を置いてお話するため「自然史」を強調し
すぎてしまったかもしれませんが、いろいろな方々が加わっていただくなかでは、
地域の文化や生業などにも広げて考えるのがいいにちがいないと思います。

ゲンゴロウさん:
> 具体的に「成す事」を考える場合、
> 「誰が、誰に、何を、どのように?」と考えるのがいいのでは
> ないかと思う。

なるほど。わたしの頭のなかは、このテーマに関してまだ「シンフォニー状態」で、
同時にいろいろな想念が去来してしまうため、それをひとつの立場なり段取りなり
としてお話するのには準備不足のようです。というより、そのこともふくめて、この
場でみなさんのお知恵をどんどん出してもらうのがいい、というご助言なのかな。

ゲンゴロウさん:
> よく知らないが、スミソニアン熱帯研究所というは、
> 自然教育ということが、魅力を生んでいるのではなく、
> その姿勢に魅力があり、来場者は、その賛同者、あるいは
> その運動の参加者であるのかもしれない。

これはわたしのなかではまさにそうですね。わたし自身はここに、まだ大学院生
だった1992年の2月から5月までの4ヶ月間滞在したことがあるだけですが、
そのとき受けた印象は、わたしの考え方に大きな影響をあたえていると思います。
熱帯林の研究施設にたくさんの研究者や学生が寝泊りしてそれぞれが自分の目的
をもって調査をし、夜には集まって順番に講師となってセミナーをやったり酒をのみ
ながら議論をしたり、などというたいへん楽しくめぐまれた経験でした。

須賀:
> > 移入種の問題も、こういう背景への理解があってはじめて、
> > その自然環境への影響のもつ歴史的な意味について考えることが
> > できるようになります。

ゲンゴロウさん:
> それほど、期待されると、来訪者としては、疲れます。

ごめんなさい、そこまで期待する、というつもりで書いたのではありませんでした。
わたし自身の経験に照らして考えると、そういう効果がある場合もあって、それは
ひとつのよろこばしいことなのではないか、という程度のつもりだったのですが。
ことばの表現は、自分がどう意図しているかだけではなく、どううけとられるかを
よく知っていなくてはなりませんから、むずかしいですね。

荻野さん:
> 「自分の頭と体で考える PHP文庫 養老孟司+甲野善紀」
> P180
>
> (甲野) コピーライターの糸井重里さんが、私の稽古会を見に来られて一番関心を
> 持ってくださったのは私の稽古会の形態なのです。

>  それでこの稽古会の形態は、糸井さんがかねて考えられていた組織のあり様の一つ
> が体現されているとのことでした。ですからさきほども話に出ましたが、誰もが共同
> 体の建前を守っていかなければならないんだということを息苦しくも思っているわけ
> ですよね。それを一応は守っているけれど、それから外れて自由に展開していいんだ
> ということになると、やはり大きな解放感もあって変わってくるのだろうと思うので
> す。
>
> (養老) 日本の研究所でそれをなくすことができる研究所というのは、おそらくほと
> んどないですね。ただ、世界中どこでもそうですけれど、うまくいった研究所という
> のは、おそらくそれをなくしたところだと思います。

同じではないかもしれませんが、わたしが経験したスミソニアン熱帯研究所には
これに似た雰囲気があったのではないかと感じます。

荻野さん(養老さんのことばの引用):
>  ある時期の京都府立一中から旧制三高もそうでした。その所長と朝永、湯川が同級
> 生なんです。それから人文研を作った桑原武夫、今西錦司も同級生です。同じ学校の
> 同じクラス。そんなこと滅多にあるわけないので、もう絶対それは環境なんですね。

ああ、なるほど、わたしも高校生のころ、桑原、今西、梅棹、といった人文研周辺
のひとたちの世界がもっている雰囲気にあこがれて進路を決めましたから、
ここで養老さんがいわんとしていらっしゃることは、わたしなりに想像がつきます。

荻野さん(養老さんのことばの引用):
>  まあ、日本の研究所で成功したところってあまりないですね。それは今おっしゃっ
> たような雰囲気を所長が作れないからです。

この雰囲気をつくることをさまたげている力は、行政組織や研究者の世界の内外を
問わずいろいろなところに遍在しているような気がします。もしかしたらそれは、日本
の社会が(ふだんはそんなところまで意識しませんが)梅棹さんのいう「工業の時代」
に過剰適応したことの後遺症として残っている部分もあるのかな、とも思います。
それはある種の倫理規範や規律、あるいはそういったものに裏打ちされた期待の
ようなかたちをとっているので、個人のレベルではなかなかさからいがたいものの
ように感じられることもありますが。

和尚さん:
> 須賀さんの構想、もう少し体力が回復した後でじっくり読ませていただきます。

学校教育については、わたしも、まだ考え足りないところがあると感じています。

ひとつのポイントは、野外学習の指導者というのは(学校の科目の先生や研究者
が付け焼刃でできるようなものではなく)地域の自然やそこでの学習者の反応に
精通したかなりの専門家として考えたほうがいいかもしれない、というところに
ありそうな気がしています。たとえば、コスタリカのグアナカステ保全エリアでは
(国立公園職員として)学校の野外学習プログラムに対応するため経験豊富な
専従の職員を6人配置していました。日本の状況を考えたとき具体的にどういう
やり方ができるのかは、また別に考えなくてはならないと思いますが。

またご意見をいただけるのをお待ちしています。

中澤さん:
> 須賀さんの【5745】や学校教育論議にもいろいろコメントしたい
> ことはあるのですが,時間がなくてできないのが悲しいです。

お時間ができたら、よろしくお願いします。

それではまた。

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 須賀 丈(すかたけし)
 長野県自然保護研究所
 電話: (026)239-1031
 Fax: (026)239-2929







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