ゲンゴロウさん みなさん
須賀です。
わたしの[BlueSky: 5678] での問いかけに対して、何人もの方からご返事を
いただきました。ありがとうございます。共感をおぼえたご意見も、もっと深く
ご教示をいただきたいと感じたご意見もあり、このテーマの広がりと大切さを
あらためて感じました。
ゲンゴロウさん:
> 平和や環境や人類や歴史や心や宇宙などに思いを馳せ
> ると、それがたとえ、かなり現実的であっても、何か夢を見
> ているような、そんな陶酔感があり、自己満足に陥っている
> ような気がします。
なるほど、そうですか。わたしの場合、地球温暖化という問題への興味の背景
のひとつとして、生物の分布はどのようにして決まるか、というテーマへの(なかば
単なる好奇心にも近い)興味があります。生物地理学といわれる分野で研究され
ているテーマです。例のネイチャーの論文にわたしが興味をもったのは、研究の
内容が、地球温暖化による生物の分布への影響をあつかったものだったからで
もあります。生物の分布がどのようにして決まるかというテーマは、この問題に
かぎらず広く自然環境の保全をいろいろな角度から考えるうえでも大事なテーマ
だと思っているのですが、それについてはまた機会をあらためてお話することに
しましょう。
ゲンゴロウさん:
> 「大きなこと」「小さなこと」と言い換えられたことは、いいかも
> しれません。あるいは、違っているのかもしれません。
> この部分は、もう少し、説明を受けたい気がします。
あまり深くは考えていませんでした。複雑なテーマを単純化してお話しするために
わかりやすいラベリンングをしてみただけですので、表現には問題があるかも
しれませんね。「大きなこと」というのは、関わる人数や地理的なひろがりの面で
文字通り「大きな」ことがら、「小さなこと」はその逆に関わる人数や地理的なひろ
がりが「小さな」ことがら、というほどの意味合いです。
ゲンゴロウさん:
> 「集団的な仕組みがあってはじめて意味をもつ」
> などは、特に、重く感じます。
> しかし、まだ、うまく表現が出来ていない様に思いました。
以下は引用した文章の著者である陸さんのではなく、わたしのイメージですが、
「個人と社会」の関係を「楽器奏者とオーケストラ」の関係にたとえてイメージ
してみていただけたら、わたしがさきのメールでお話したかったことを理解して
いただきやすくなるかもしれません。
確かに人間の集団には、ゲンゴロウさんがおっしゃるようにネガティブな面も
いろいろあります。しかし一方でひとりひとりの楽器奏者にはできず、オーケストラ
という集まりになってはじめてできることもあります。大編成のシンフォニーなど、
オーケストラ向きに書かれた曲を演奏することです。地球温暖化など、「大きなこと」
の多くは、オーケストラの挑戦を待っている曲にたとえることができます(趣味として
そういう曲は好きじゃないという方もいらっしゃるだろうとは思いますが、これはあく
ま
でたとえですので、そういう好き嫌いにはあえて目をつぶっていただけたら助かりま
す)。
けれども、オーケストラの演奏にも「うまい」「へた」はあります。個人と社会につい
て
わたしがイメージしている内容をよりはっきりと思い浮かべていただくために、もし
できれば、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのような世界の一流のオーケストラの
演奏がどのようにして成立するかを考えてみてください。ひとりひとりの演奏者は
個人としての長い修練をつんできています。そして他の奏者と一緒に楽団の一員
として演奏することにも多くの経験をつんでいます。これらのうちどちらか一方だけ
ではオーケストラとしてのすばらしい演奏は成立しません。個々の楽団員には強い
個性やひとすじなわでいかない自己主張をもったひともいるでしょう。それでも、
オーケストラとしての演奏に寄与する力としてはほかのひとにひけをとらないものを
もっているはずです。
もちろん、生活のあらゆる面で、よき楽団員たるべし、などといいたいわけでは
ありません。ある曲を演奏する、という特定の目的にむかって、特定の時と場合
にその精神力と技術を集中させることができればいいわけです。
また、いつもいつもオーケストラが「調和のとれたハーモニー」を奏でなければ
ならないともかぎりません。ストラヴィンスキーやプロコフィエフの美しい曲に
みられるように、あえて不協和音を発することがすばらしい効果をうむことも
あるでしょう。
さらにいえば、曲によって指揮者がかわったり、楽団のメンバーが入れ替わったり、
同じ人がオーケストラのほかに弦楽四重奏団のメンバーになったりソリストに
なったりしてもいいでしょう。クラシックだけでなくほかのジャンルの曲を演奏しても
いいわけです(これはまったくの余談ですが、わたしは、クラシックだけでなく、
アフリカや中南米、東南アジアのポピュラー音楽も大好きです)。
いずれにしても、個人と社会の関係を考えるとき、集団によって個人の意思や力が
一方的に無力化されるケース(そのようなケースもあるだろうと思いますが)のほか
に、自立できるだけの力をもった個人がその力を社会の問題解決力を高めるため
につかう、というケースも考えられるのではないか、その例として楽器奏者とオーケ
ストラの関係をひとつのたとえとしてイメージしていただくことができるのではない
か、
ということです。
ゲンゴロウさん:
> 具体的に、ゴミ問題を例にすると、この話の内容は、
> どういうことなのだろうか?と、詳しく知りたくなります。
そうですね。実はゴミ問題については、わたしはしろうと同然ですので、わたしから
お話するよりも、みなさんのお考えをうかがってみたいところです。とりあえずしろ
うとなりに考えてみますと、ゴミ問題には、買い物袋の持参とかゴミを出すときの
分別といった個人レベルでできることのほかに、生産や流通の過程でゴミのもと
となる資材の使用をへらすとか、廃棄物処分場をどの場所にどのような仕様で
建設するか(候補地の住民が反対している場合にどうするか、その場所が貴重な
動植物の生息地であった場合にどするか)など、社会としての問題解決をせまら
れることがらもあります。後者のような問題を解決していくためには、対話やプレ
ゼンテーションの能力など対人関係のスキルやそれなりの専門知識、さらには
小宮さんがおっしゃったような感受性と想像力といったものが大切になってくる
のではないでしょうか。
ゲンゴロウさん:
> 集団の中で個人はどうなるのか?また、
> 個人によって集団はどう影響をうけるのか?
> そういう仕組みも分からなければならない。
そうですね。これも大事なテーマだと思います。このことについてお話しする用意は
まだできていないのですが、わたしが上にのべたような(楽団員とオーケストラの関係
のような)状況を成り立たせる条件はどんなものかを考えるうえで、確かによく考えて
いかなければならないテーマだと思います。
長くなりましたので、ほかの方へのご返事は別のメールに分けたいと思います。
それではまた。
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須賀 丈(すかたけし)
長野県自然保護研究所
電話: (026)239-1031
Fax: (026)239-2929
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