葛貫です。
森山さん
>ただ「僕は僕なりの基準でバランスを取っています」、
>と言ったところで何の意味もないですよね。そんなこと当たり前なわけだから。
>要するに僕は所詮、いかに生きれば欲を満たしつつ(環境にダメージを与えつつ)、
>なおかつ次の代なり自分たちの老後なりが過ごしやすいものになるか?
>ということを考えている、あるいは考えたいと思っているに過ぎない。
>そもそも環境にダメージを与えずに生きていくなんてできるわけないんだから、
>それが悪いとか良いとか言っているわけではないんです。
生きている以上、環境負荷を与えないということはあり得ない。
茶わんに一粒のこびりついたご飯粒に「生まれてきて済みません。」と、
落ち込む太宰治の感覚も、現実的な解決にはつながらない。
私には、どのようなポーズをとっていようと、人は、結局、自分の中の快・不快の総和で
行動を決めていると思われます。
何かをする/しないのは、そうすること/しないことが、その人にとって一番心地好いから。
環境保護について考える時、罪悪感や恐怖心に訴えたり、自分の正義だけを声高に主張
する一種の宗教の布教のような方法は、自己陶酔に陥ったり、神経性のコブをつくるだけで、
現実的な解決をもたらす契機にはなりにくい気がします。
科学や技術の立場からできることは、あるものごとに関するメリット、リスクの明示。
代替案の提示。
あとは、社会的な選択に任せるしかないのかもしれません。
通説に振り回されるのではなく、自分の目で何が起こっているのか、
それは自分が望む質に合うのか、一人一人が見極め、表明できるようになれれば
いいのでしょうけれど。
タバコの箱に「健康のために吸い過ぎに注意しましょう。」と書かれていても、
吸う人はいる。それは、個人の選択、好きにすればいい。
ただ、近くにいて、望まないのに煙を吸いこまされている人は大変な迷惑。
お互いの欲求の折り合いを付けたり、価値観の最大公約数と最少公倍数を
見つけることは難しいです。
ではでは。
Y.Kuzunuki <kuzuny@geocities.co.jp>
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