[BlueSky: 5538] Re:5531 Re . 5520  ことばと現場


[From] "suka" [Date] Wed, 19 Nov 2003 21:18:45 +0900

ゲンゴロウさん みなさん

                須賀です。

返事がすっかりおそくなってしまってすみません。インドネシアの調査
から帰ってきてきてからいそがしくて、なかなかご返事をお出しする
時間をとることができませんでした。幸か不幸か、このところこのML
ではあまりやりとりがありませんでしたから、1週間以上前の話の
つづきをさせていただいても、きっとそれほどヘンじゃありませんよね。

ゲンゴロウさん[BlueSky: 5531] より

ゲンゴロウさん:
> 戦争では科学が発達するようですが、言い争いでは頭が
> フル回転し、様々なことに気がつけることが起きるよう
> な気がします。肉体的な暴力が起きにくいMLでは、精
> 神的な暴力さえ気を付ければ、得るものは、かなり多く
> なるような気がします。
> MLで言い争いが起きたとき、まとめ役が、判で押した
> ように登場しますが、まとめ役が出てくると、「頼むか
> ら仲裁しないでくれよ〜」と心の中で思う時があります。

なるほど。わたしももしかしたらそういう「まとめ役」っぽいところが多々
あるようなふるまいをしてしまっているかも知れませんね。もう少し実感
に近いところをさぐってみると、別に「まとめ役」になりたいわけではなく、
話が錯綜してくると、これらを矛盾しないようにとらえるにはどうしたらいい
のだろう、というようなことを考えてしまう癖がわたしにはあって、さらに
そんなふうにして考えたことを人前でも言ってみたくなるという喜ばしくない
傾向をももっているのだという気がします。

ゲンゴロウさん:
> > > それから、次に、ある物という個体に関しても、十人十色、
> > > 千差万別な捉え方があるような気がするのですが、、それは
> > > どうするのかな〜と思ってしまいます。

須賀:
> > たとえば、食べ物についてそのつくり方や栄養素や有害成分
> > などについて考えているとき(わたし個人の体験にとって事物
> > が欠けているとき)とそれをがしがしと腹のなかにつめこんで
> > いるとき(事物と出会っているとき)というように対比して考え
> > れば、むしろウィリアムのことばはものすごくあたっているよう
> > にも思うのですが、いかがでしょうか。

ゲンゴロウさん:
> これですね。たぶん、私に欠けているというか、ないのは。
> 自分の感覚的なことを自分一人で感じることが苦手なのかも
> しれません。なんか、寂しいというか、共有したいというか、
> 後ろ盾が欲しいというか、、。
> そういう全面に出してはまずい「共感」などを、私は不純に
> 求めてしまっていたのかもしれません。認知してもらい、さ
> らに共有しないと、それを自分だけでは信じられないという
> 思いがあるので、強引に人に共有を求め、言葉を駆使しよう
> とし、あーでもない、こーでもないと考えているような気が
> します。
>
> 良いとか悪いとか、必要とか不必要という考え方ではなく、
> 感覚とか味わい、直感の前には、言葉などほんとに小さな存在
> ですね。でもだからといって言葉がダメだということでも
> ないのでしょうが。。。
> ・・・などと、勝手に、「ですね」と同意と決めつけてしま
> ったようですが、いかがでしょうか?須賀さんの感覚を。
> よろしければですが。。

わたしの感覚ですか? うう、食べ物に関しては、ゲンゴロウさんとちがって
わたしには「何も語れない」という感じがあるばかりです。だからウィリアム
修道士のことばはかなりよくあたっているように感じます。「食べてるときの
顔は子どもみたい」というような意味のことを言われたりします。自分では
わかりませんが、もう無我夢中でひたすらむさぼり喰う、という感じなので
しょうか。

インドネシアで調査をして、暑くてたまらないときなど、清涼飲料水であろうが
ナンであろうが、もうぐびぐび忘我の境地で飲んでしまいます。

十代や二十代のころ、自然のなかを歩いたとき、無限に多様な色合いに
染め分けられて輝く緑の色などをみて、この感じをことばであらわしてみたい
と思って、必死になって詩を書こうとしたことがあります。けれども、詩が
作品として美しくなるには、感覚をどれだけ正確に表現できているかという
こと以上に、ことばの世界としての内なるパワーのようなものの方がもっと
大事になってくることに気がつきました。このことでも、ことばと感覚の
ずれというか、不一致とでもいうべきことがあるのを感じます。新緑の輝き
をみて感じる気分は、もうそれだけで「詩」であるようにも思ったのですが、
ことばの「詩」にはそれとはちょっとちがう原理でできているところがある
ようです。

ゲンゴロウさん:
> 私たちがサルだったころ、野獣に追いかけられたなら、やはり
> 「うわー」と感じたでしょうか。。そういう体の底から出てく
> る「感じ」、そして、その時に出てくるうめき声のよう声の感
> じが重要だということですね。そういう声、それは声ですが、
> その声が、感情を他者に伝えたいという想いと一緒になって、
> だんだんと言葉になっていったのでしょうが、それは、また別
> の問題のようです。つまり、言葉(記号)というのは、やはり、
> 本来、Communicationの為にあるのであって、コミュニケーシ
> ョンが一人歩きしてしまって、もう、真に物事を示すだけにあ
> るのではないような気もしてきます。

脱線ですが、「日本子ども学会」という学際的な学会がこの秋設立されることに
なったそうです。
http://www.crn.or.jp/KODOMOGAKU/index.html

(このことは、読売新聞のホームページの記事で知りました。)
11月29日に東京都調布市にある白百合女子大学で設立総会がひらかれる
そうです。

この「日本子ども学会」のホームページ(上記のサイト)のなかに、「5分でわかる
子ども学」というコーナーがあります。その第1回「対談・最新の脳科学は、子ども
観をどう変えたか」で、小児科医の小林登さんと認知神経科学・霊長類学の澤口
俊之さんが対談されています。
http://www.crn.or.jp/LIBRARY/EVENT/EVENT04/TAIDAN01.HTM

このなかで澤口さんは、言語の機能(はたらき)について、次のように説明して
おられます。

「・・・つまり、言語にはコミュニケーション以外にも本質的な機能があって、
それは「representation(レプリゼンテーション=再現)」です。世界の事物や
事象、他者、あるいは自分自身を符号化・概念化して再現すること。そして、
世界とその中での自分の動きをシミュレーションすること。言語のもっとも重要
な働きは、こうした再現とシミュレーションにあります。それは思考そのものと
言っていい。つまり、人間の知性は何を知るために発達したかというと、自分
や他人の心や行動を知るために発達したとも考えられるわけです。」

ゲンゴロウさんとわたしのあいだでいろいろと考えてみたことを、この澤口さんの
説明に照らし合わせて考えなおしてみると、とても面白いですね。

---
もうひとつ、ゲンゴロウさんからは「私たちは群盲なのか? 」という問題提起も
いただいていました。

ゲンゴロウさん[BlueSky: 5533] より

ゲンゴロウさん:
> ただ、おっしゃるように、違った考えとか異論などがある以前
> に変なことが起きているのではないか?と思うことがあります。
> いや、私にとっては、その変なことを探すのが私の課題でもあ
> るので、須賀さんのおっしゃることは、私への戒めなのかもし
> れません。
>  私は、いつも別な話を始めてしまっている様です。話が発展
> するのはいいことですが、あまり違った観点に立って話をする
> と、せっかくのよい話が、拡散して台無しになる場合が多いか
> もしれません。申し訳ありません。

いえいえ、ゲンゴロウさんのことを特にもうしあげたつもりはありませんでした。
そんなふうにお感じになったとしたら、わたしの表現の仕方に配慮が足りなかった
ということですね。わたしはむしろ、どうしていつもわたしはこんなふうに舌足らず
になってしまうのだろうか、というところに興味をもってお話ししたつもりでした。

わたしはこういう場でお話しするとき、頭のなかに特定の文脈を思い浮かべて、
かなりかぎられた意味でしかことばをつかっていないことが多いのです。けれども、
わたしの頭のなかにあるその文脈は、(わたしのすぼらな性格も災いして)ことば
としてちゃんと表現されていないこともまた多いわけです。その結果、それをうけて話
を広げていただくというより(その広げていただくことは楽しいことと思っていま
す)、
むしろことばの意味がわたしの表現したかったとおりに伝わらなかったな、と感じる
ことがこのようにしてときどき起こります。それは道徳的に考えるなら、単にわたし
の説明不足というふうに片付ければすむようなことなのですが、少し距離をおいて
みるなら、ゲンゴロウさんもお考えになっているように、何か人間にとってのことばの
基本的なあり方を考えさせてくれるような現象であるようにも思えます。

ゲンゴロウさん:
> 【私たちは群盲なのか?】
>
>  私もMLでのやりとりなどで、考え方の違い以前に困ったと
> 思うことがあります。それは、全てを網羅できない中で、言え
> なかった点への指摘があり、その指摘によって、肝心なことが
> 消されてしまうことです。情けなくなる時があります。
>
> 何かが起きているような気がしてなりません。推測ですが、
> 「考え方の違い」と「伝えられない事による部分否定が、全否
> 定になってしまう」ということには、何かしら共通点のような
> ものがあるような気がします。(この問題自体が、まだアヤフ
> ヤだが、とにかく考えてみる。)

そうですね、わたしも考えてみたいと思います。

ひとつわたしが思いついたのは、
「ことばをつかったコミュニケーションでは文脈が大事」ということです。
「文脈」を「場面」といいかえてもいいかも知れません。

このことは、笑ってしまうくらいあたりまえのことのようにも思います。そして
わたしが興味深いと思うのは、どうしてそのあたりまえのことをわたしたちは
しょっちゅうわすれてしまうのか? ということです。

ひとびとが少人数で群れをつくって暮らしていたような環境では、このことは
むしろ問題になりにくかったのかも知れませんね。お互いの姿やしていること
がみえるような位置でことばをやりとりするとき、「文脈」や「場面」はだいたい
共有されていることが多いのではないでしょうか。

それに対して、現在の日本のような、とりわけインターネットの世界のような
複雑に入り組んだコミュニケーションの場では、相手がことばを発している
「文脈」や「場面」が互いにみえにくくなっているように思います。ことばの
意味のとりちがえが起こりやすいのは、そのせいもあるのではないでしょうか。

そして、このこととどう関係づけられるかまだわかりませんが、このような
環境でことばをとりかわしていると、相手が十分にことばを駆使しなかった
とき、相手の考えていることが小さくみえてしまう、ということが起こりやすい
のではないかという気がします。

「群盲、象を撫でる」ということばでゲンゴロウさんがお考えになったような
ことが起こるのは、上のようなことが個々の場面で起きやすいせいでは
ないでしょうか。

ゲンゴロウさん:
>  私たちは、自分たちが、自分一人では触りきれないほどに大
> きなものを触っているのは確かな様です。また、私たちは、も
> うそれに気がつきつつあるのも確かな様です。さらに物事は、
> どのように触るかでも違いが生まれることも私たちは知ってい
> る様です。しかし、「一人では触りきれない物事を触っている」
> ということを忘れがちな為に、群盲になっているのも、確かな
> 様です。

そうかもしれませんね。そしてわたし自身のありがちな傾向を棚にあげて
いうようで恐縮なのですが、それぞれがことばを発している「文脈」や「場面」
というものにもっと意識をむけて、それをつたえあうようにすることが、
その「象」の実際のとてつもない大きさをよりよくイメージするのに役立つ
ような気がします。

ゲンゴロウさん:
>  実は、私たちは群盲ではなく、役割分担として様々なものの
> 捉え方が出来る生き物なのかもしれません。その能力のおかげ
> で私たちは生き延びてきたのかもしれません。皆、人と違った
> ところを触りたがるという習性、つまり「集団的な能力」が私
> たちに備わっているのかもしれません。

なるほど〜。これもたいへん面白いお考えですね(本当にそう思います)。
こんなふうに考えていけば、こういうインターネットの世界のことばにも、
まだ未知の可能性がひらけている、と思えるかも知れませんね。

わたしも、このことについて考えてみたいと思います。

   須賀 丈


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