[BlueSky: 5520] ことばと現場  Re:5515


[From] "suka" [Date] Wed, 5 Nov 2003 08:38:45 +0900

ゲンゴロウさん

ご返事、ありがとうございます。

『薔薇の名前』は、中世のイタリアの僧院が舞台になっています。
ですから、修道士ウィリアムのことばもその当時の哲学上の
ひとつの立場をあらわすものとして描かれていて、かならずしも
近代科学や現代の複雑な社会を反映したものになっていない
のかもしれませんね。[5511]で引用させていただいた部分は、
「師」であるウィリアムと小説の語り手である「私」が神学上の
教えについて話しあうところに出てきます。著者のウンベルト・
エーコは、訳書の「著者紹介」によると「世界的な記号論学者」
ということですから、当時のそうした神学上の論争についてよく
知っていて、それをある種の遊び心をもってこの小説のなかに
とりあげたのかな、とも思います。

ごぞんじの方もたくさんいらっしゃると思いますが、この小説は
ショーン・コネリー主演の映画にもなっています。

ゲンゴロウさん:
> ただし、このお話の内容、よく、私には理解できないことです。
> 「百の想像は一見にしかず」ということなのでしょうか。

そうでしょうか。引用した部分だけではわかりにくいかもしれま
せんが、この話は、ことばともののあいだのもっと複雑で微妙
な関係について語っているようにもわたしには思えたのでした。
それを自分のことばではいえないので、うまく説明できないの
ですが。

ただ、ゲンゴロウさんの疑問は、どれも面白いと思います。
わたしがあたかも正解を知っているかのように答えをだすより、
みなさんにも考えていただくほうがいいのかもしれませんね。
そのほうがこのメーリングリストの趣旨にもあっているように
も思いますし。

ただ、それだけではそっけない気がしますので、わたしなりに
思いついたことを書いてみます。

> あるいくつかの疑問が生まれてしまうことを抑えられません。。
>
> まず、個体なら、目で見られるので、見れば、解決するだろう
> と思いますが、それが、化学変化のような現象であったり、、
> さらに複雑に影響しあう人間の起こす現象などである場合には、
> 見えないこともあるので、いったい、どうするのだろうか、、
> と思ってしまいます。

ここでウィリアムのいう「事物」を肉眼でみえるものに限定せずに、
観察・観測・実験などで確かめることのできる事実というふうに
ひろげて考えれば、その延長に近代科学の立場を置くことが
できるかもしれませんね。

> それから、次に、ある物という個体に関しても、十人十色、
> 千差万別な捉え方があるような気がするのですが、、それは
> どうするのかな〜と思ってしまいます。

たとえば、食べ物についてそのつくり方や栄養素や有害成分
などについて考えているとき(わたし個人の体験にとって事物
が欠けているとき)とそれをがしがしと腹のなかにつめこんで
いるとき(事物と出会っているとき)というように対比して考え
れば、むしろウィリアムのことばはものすごくあたっているよう
にも思うのですが、いかがでしょうか。

> さらに・・・もっと遡ってしまうと、実は個体という疑いの
> ないものも、実は、それが見えているという背景には、人間
> 的なものが働いているともいえるのではないか?と私は想う
> のですが、そういうことは、無視されてしまい、ちょっと危
> 険かななどとも思ってしまいます。

そうかな〜。上でわたしがあげたどちらの例で考えても、
「人間にとって」事物とか記号とかがどんなものであるかを
よくいいあらわしていると思うのですけれど。

> そして、物がある形を擁しているのは、人間が互いに了解し
> あっているからとも言え、その為に、言葉(記号)があると
> 思うので、言葉が新たな概念の発見を生み、その概念が言葉
> を作り、さまざまな物事を出現させているので、欠けている
> というよりは、言葉がある限り、その前には、無限に物事は
> 出現するということなので、欠けているように見えてしまう
> のではないか?!と思ったりします。

そうかもしれませんね。ただ、記号をつかって了解しあうため
にも、事物の世界が仲立ちとして必要なのではないでしょうか。
ウィリアムのことばはそのことをうまくいいあらわしているように
わたしには思えたのでした。

いかがでしょうか。

   須賀 丈


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