[BlueSky: 5511] Re:5508 赤いオーロラ等


[From] "suka" [Date] Sat, 1 Nov 2003 03:12:53 +0900

葛貫さん 佐藤さん みなさん

   須賀です。

葛貫さん:
> 「楽しそうだな」、一種独特のキャラクターですね(^^;;。

ありがとうございます。なぜか、とてもうれしいです。

> 太陽黒点極大が1860年2月、1959年9月2日に日本やキューバ、ジャ
> マイカ、ハワイ等の低緯度の土地でもオーロラの記録があるという
> ことは、1860年7月4日にワイギオウ島でオーロラがみられてもおか
> しくないかも。

なるほど、これは面白いですね。

佐藤さん:
> やっぱり、顔をあわさずに議論するのはよくないなー
>
> 現場で、じっくり観るのがいいよなー、と思い始めています
>
> 答えは現場にある、っていうじゃないですか

偶然ですが、きのうインドネシアから自宅に帰ってきて、特に
なんということもなくウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(河島
英昭訳 東京創元社)という小説をひらいたら、こんなことば
が目にとびこんできました。小説の主人公である「私」が「師」
とよんでいる修道士ウィリアムのことばです。このウィリアム
は鋭い推理能力をもった人物としてえがかれています。

「……いまから一時(いっとき)ほどまえに、わたしはこれから
いかなる馬が現れるのか、あらゆる想定をめぐられていた。
ただし、それはわたしの知性が豊かだったからではなく、むしろ
わたしの直観が貧しかったからなのだ。そして修道僧たちが轡
(くつわ)をつかんで連れてきた、あの個体としての馬をみたとき
に、やっとわたしの知性の渇きは癒された。あのとき初めて、
それまでの推理が、わたし自身を真理の近くへ導いてくれた
ことを悟ったのだ。こうしてみると、まだ見たこともない一頭の
馬を想像するために、わたしが最初にもちいた観念は、単なる
記号にすぎなかった。ちょうど雪の上の足跡が、馬という概念
の記号であったように。そして記号や記号の記号を用いるのは、
わたしたちにとってまだ事物が欠けているときにかぎられるのだ」

わたしはこれを前によんだときにえらく感心したらしく、引用した
部分の最後の文の横に赤鉛筆で太い線をひいています。そして
これで満足してしまったようで、この本をよむのはここで中断した
ままになっています。むずかしいことをいっているようにみえます
が、これは、佐藤さんがおっしゃっている「答えは現場にある」と
いうことと、たぶん同じですよね。

このウィリアムのせりふにつづいて主人公の「私」がこんなふうに
思いをめぐらせていることからも、そのことがうかがえます。

  以前にも何度か私は師が普遍概念に対しては非常に懐疑的な
 話し方を、そして個々の事物に対しては非常な尊敬をもって語る
 のを、耳にしたことがあった。

わたしがこれをよんで感心した理由のひとつは、これが読者への
サービス精神にあふれた小説のなかの一節として出てきたせい
もあるかもしれませんね。

ことばからはなれて個々の事物にむかうことの重要性を、こんな
ふうにものすごく工夫された表現でいわれると、なぜかかえって
感心してしまう。ちょっと不思議ですね。

メーリングリストでのことばのやりとりにも、実際の馬をみるまで
の推論のきっかけくらいには、おたがいに役立てられることが
あるんじゃないかな、と思いたい気がします。それには工夫が
いる、というわけですが。ちょっと楽天的すぎるでしょうか。

   須賀 丈













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