[BlueSky: 5224] Re:5222  「蜘蛛の糸」を読んで


[From] "Y.kuzunuki" [Date] Tue, 15 Jul 2003 11:45:55 +0900

こんにちは、葛貫です。

ゲンゴロウさんwrote:

>   お釈
>   迦様とカンダタの存在。そして、出来事を見ている
>   者の姿なき語り手の存在。そして、、このお話を考
>   えた芥川龍之介の存在という三者が現れていました。
>   そして、その三者の考えが、まったく一致していな
>   い様にも感じていました。
>   そのために、お釈迦様への疑い、語り手の出来事の
>   解釈への疑いが、この蜘蛛の糸の中にあるような気
>   がしてなりません。。

芥川の年譜を眺めながら、青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/
で、「蜘蛛の糸」等、いくつかの芥川の作品を読んでみました。

芥川の作品を読んでいると、ものごとの成り行きをえがいている自
分を、何故そう感じ、そう見るのか、外側から見ているもう一人の
自分がいて、また、その外側にそれを観ている自分がいて・・・とい
う何重もの目があるように感じられます。

「僕は芸術的良心を始め、どう云ふ良心も持つてゐない。僕の持つ
てゐるのは神経だけである。」と、自分を追い詰め、「少くとも僕
の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼん
やりした不安である」という遺書を残して芥川は自殺してしまった。

鮮やかな、そして子供にでも通じる言葉で何編かの寓話を書いた
とても怜悧な人、そんなふうに言葉を操ることができる人が、自分
の中にある「ぼんやりとした不安」との戦いに、倦み疲れてしまっ
たのでしょうか。

「自分の一番自信があるのは、人間としての自分である。特殊の人
間、専門的人間とせず、ただあたりまえの人間として、つまり幸福
な楽天家としての自分に自信がある。」といい、「杜子春」が最後
に望んだ理想郷のような「新しき村」で創り出そうと、実際に動い
た武者小路実篤とは対象的ですね。



久し振りに「蜘蛛の糸」を読んで、一番印象に残ったのは最後の一
節でした。

『しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。
その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼
を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好
い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くな
ったのでございましょう。』

芥川が「蜘蛛の糸」で書きたかったのは、強盗をすることくらいしか
今日をしのぐ術を思い付けないカンダタに、かつて助けた縁がある
蜘蛛の糸を垂らしてみようというお釈迦さまの思い付き(?)にも、
他の人に降りろと喚いた瞬間、糸が切れてしまったという出来事に
も頓着せず咲いている極楽の蓮池の蓮だったのかもしれないと、
ふと思いました


地にうごめくいきものが朽ちてできた泥に根をおろし養分を吸い取り、
通り過ぎていった出来事に頓着せず、極楽の光の中で花を咲かせ、
千年後でも自分に都合のよい条件が整えば硬い殻を破って芽を出す
実を水底に残す蓮。柔かであっても冷か、ですね。

「蜘蛛の糸」事件が起きた場で、一番、したたかだったのは、この
蓮かも(^^;。



「蜘蛛の糸」って、「小さな人たちのために、芸術として真価ある
純麗な童話と童謡を創作する運動」を展開する場として創刊された
「赤い鳥」という児童雑誌にのせるために書かれたんですね。

「電通の古今東西広告館」の
http://www.dentsu.co.jp/MUSEUM/index.html
「子供と児童雑誌」
http://www.dentsu.co.jp/MUSEUM/taisho/3rd/child/index.html
面白かったです。

子供向けの雑誌に載せる童話に、さり気なく、この最後の一節を書
いた芥川龍之介って凄い。大正時代って、面白いなと思いました。

自分を切り刻むようにして書かれた芥川の作品も、この蓮が放つ
香のようなものなのかもしれませんね。
お釈迦さまは、この香を嘉してくれたでしょうか。

とりとめのない話になってしまいました(^^;。
ではでは。


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