[BlueSky: 482] 戦前、戦後の日本人の違い


[From] GENNGOROU@aol.com [Date] Tue, 17 Aug 1999 14:41:23 EDT


青空mlの皆様、こんばんは。

                   ゲンゴロウです。

私がネチネチと考えたことです。
聞いてください。
考えながら書いたのでまた、ちょっと変な話し方ですが、、、

*************************
戦前、戦後の日本人の違い
*************************

ある時、自衛隊に入った人が上官から他国の人間に「発砲せよ」
と命令を受け,その人がその命令を拒否した。としたら。。。。

この人(自衛隊員)は命令拒否として罰せられるでしょう。
でも、本当に彼は罰せられるなければならなかったのだろうか、
と考えてみました。

この自衛隊員は上司の命令には従わなかったが,
「しない」は「しないことをする」という積極的な行為だから、
彼は、何か他の命令、ないしは他の規則に従った可能性がある。となります。

積極的な行為だったことを考えると。
彼には隊長の命令より上位とする規定があったことになる。
となります。
たとえば、憲法とか、博愛とか、親の言葉とか、、、

このことから、人は行為をするとき、ある行為に二つの規定が合った場合、
二つを比較、選択、決定し、上位の規定に従うといえるような気が・・・

また、次のことも分かる。
もし彼が上位の規定を知らない場合には、選択は起こらず知っている
規定に従う。

また,
どちらが上位か知らなかった場合には、選択、決定は難しい。

------------------------------------------------------
ちょっと、上に書いた、人の行為を定める規定で、
戦争状態になるまでの人間の危険性について考えてみます。
------------------------------------------------------

もし戦争の時に人々の前に突如、上位と信じる規定が登場したなら、
平和な時の信条は無意味となってしまうような気がします。

たとえば、こういうことが、起きているかもしれません。

○家族を殺された者が、法よりも家族の命を信条としてしまったなら
 法は簡単に破られるのではないでしょうか。
○個人主義の国では往々にして個人の規定が国の規定を上回っている
 可能性があるような気がします。
○ある国の国民が、その歴史において国の存在の弱さを味わっている場合、
 個人、民族、家族の規定が上位になっていて、国家が定める法は有名無実
 になってしまっている可能性があります。

---------------------------------

話を平和に変えまして、、、
人の選択決定する行為が常に最上位の規定に従うのなら、
「平和的な規定こそが最上位の規定だ」と全世界の子ども達の脳に
教え込めばいいかも。。しれません。
「平和的な規定」だけは、時に及んだとき、家族、会社、軍隊、国家の定め
る規定より上位だと簡単に判断できるようにしたなら。。。

できるでしょうか。。

---------------------------------

話を本題に、無理矢理もって行きます。です。

戦前の人間がどんな基準に従ってきたかを考えてみますと。。。
あの時代の日本人はきちんと法律に従っていたことは確かです。
つまり、
個人的には「人を殺してはいけない」という考えがあっても,いざという
ときには国家の決めた規定が上位になっていたのではないだろうか。

個人の脳の中に、集団が決めた規定が上位を占めるということは、、
これこそ集団生物的(超個体的)なのではないだろうか。。。

終戦を迎えた日本人が、もし、集団生物的な細胞人間だったと考えると、
ガラッと変わった日本人の特長も理解できるような気がします。

  戦後の国家の定めた規定が戦前の規定と180度逆転したにも関わ
  らず,皆,矛盾を感じずにそれに従ったのは、、
  もともと、日本人が個人の信条よりも集団が決めた規定にしたがう
  集団生物だったからでは。。

  つまり、日本人は優柔不断、うそつきではなかったことになる。
  (よかったなあ)
  息子、親、母親を殺されたにも関わらず、その敵を受け入れたのも
  個人的な恨みさえも国家の規定のまえには「無」になっていたので
  はないだろうか。(どうだろう・・・)

集団を作る構成員の意思より属す集団に従っているのが集団生物。。

勝手にそう仮定して、さらに考えてみると。。。

米軍のGHQは戦前の集団生物の集団の規定に従う日本の国民性を利用
して日本国民に民主主義を教育しただけで,集団生物を個に戻す教育自
体はしてはいないことです。
すなわち,戦後の日本人は集団生物のままではないかということです。
戦後の民主主義教育もこの集団生物的な日本人が教え教えられた繰り返
しである可能性は高いという事も考えられます。

日本人が人類の中でも、もっとも集団生物的である可能性が高いかも。。
この集団生物的な日本人にとって、第二次世界大戦は物質的な環境とし
ては大きな変化をもたらしたが精神的な変化としては小さな出来事で
しかないのでは、ないだろうか。。。

その後の、日本人の経済成長降り、集団教育好き、会社人間という組織
従属思考、を考えるとまんざら違うとも言えないような気がします。

じゃあ、、私はどうなのかというと、、
集団生物の構成員は、自分が集団生物の一部だと気がつかないことを
考えると、もしかすると、私もそうなのかもしれません。

現在の日本人が「平和」を願っているのもこの集団生物的な思考による
ものでしかないとしたら、私は、怖いです。
全体が勝手に動き、勝手に法を変え、国全体がカメレオンのように再び
戦争色一色になる可能性は、十分にあるのではないでしょうか。

戦前、戦後の日本人の違いは、ないということに
なってしまいました。。

************************************
と、私は考えちゃいました。genngorou




▲前の記事へ ▼次の記事へ △記事索引へ △青空MLトップへ

(注)この記事が最新である場合,上記「次の記事へ」はデッドリンクです。