[BlueSky: 4479] 持続可能な開発


[From] Abe Yasushi(阿部靖志) [Date] Sun, 14 Jul 2002 15:07:17 -0400

阿部@イジャペルです。

 皆様の議論を横目に、開発と環境問題について色々と考えていま
した。総論と各論のゴタ混ぜですが、ご笑覧頂ければ幸いです。


*貨幣経済
 誰かに幸せにして貰うと『ありがとう』という感謝の気持が湧き
ます。湧かなくっても『見返り』を求められたりするかもしれませ
ん。その辺の遣り取りを円滑に進める道具として誕生したのが『貨
幣』なのではないでしょうか。

 であれば、貨幣経済の発生初期には、富豪とは感謝される事を沢
山した人、貧民とは感謝するばかりで誰にも感謝されないような生
き方をして来た人、だったのかもしれません。すなわち、周囲の人
と遣り取りしてきた幸福感の収支が正であれば富豪へ、負であれば
貧民へと変わって行った、ということです。

 他人を不幸にする事でも富豪に成れるのかもしれませんが、それ
は幸福を奪って集めるだけのことです。しかし、そのような経済の
ゼロサムゲームとしての側面を除けば、経済行為は世界に有る幸福
の総量を増やしているのだ、とも言える訳です。また、世界中で取
り引きされている貨幣は、世界中を循環する幸福に具体的な形を与
えたモノだとも言えます。したがって、世界の貨幣の総量が増加を
続けている現実は、世界中を循環する幸福の総量が増え続けている
ことを示しています。


*開発
 経済行為を前述のように捉えると、経済開発とは『幸福を生み出
す存在の開発』と言えるかもしれません。不毛の土地を開拓して農
地にする事で、農産物(に付随する幸福)を生み出す、といった具
合に、です。

 人間の欲望に限りが無ければ、開発が必要とされる分野は尽きま
せん。話を食糧に限っても、より安全な、より美味な、といった具
合に、です。

 その機構を眺めれば、既に持っているモノではなく、未だ持って
いないモノが次々と提案されることで『不足している』という認識
を与えられ、与えられた不足感を購入によって払拭する事で幸福感
を手に入れている事が容易に理解されると思います。

 以上をまとめれば、開発の受益者が餓鬼であれば『持続可能な開
発』は永遠に可能、と言える訳です。『吾唯足るを知る』という侘
び・寂び(併せてワサビ?)の境地を文化として伝える日本人が餓
鬼に成り下がるのは如何なものかとも思います。

 もっとも、皆が慎ましく生きたとしても人口が増加し続けるので
あれば需要の絶対量も増え続けますから、やはり開発も必要になり
ますが。


*資源
 貨幣経済においては資源の豊富さが価格で表現されます。従来は
環境の回復能力(という資源)が人類の持ち得る環境汚染能力(と
いう資源消費力)を上回っていたので、環境を汚染する権利(?)
は無料でした。しかし、技術の進歩と経済の発展は人類の環境汚染
能力を増加させてきました。しばらくは気付かないフリも出来たの
ですが、近年の科学の進歩によって、環境汚染能力が環境の回復能
力を上回っている事が証明されてしまいました。

 その結果、現在では環境汚染に対して規制がかかる(環境を汚染
する権利が有料化する)時代になっています。ダイオキシンや六価
クロムなどの人体に有害な化学物質は割と早めに規制の網がかかり
ましたが、人体に無害でも環境を有害化する特定フロンや二酸化炭
素等についても、遅めではありますが、規制の網が掛って行くよう
です。

 地球は、物質循環に関しては、ほぼ閉じた系だと言えます。した
がって、エネルギーを遣り取した結果として生産される物質は、ほ
ぼ確実に地球の何処かに残される事になります。一方、エネルギー
に関しては開放系なのですが、地球が受け取ったエネルギーは形を
変えて、保存されるか、輻射熱として大気圏外に放出されているの
で、人類が生存している地表面に関しては、むしろ平衡系と言うべ
きでしょう。

 要するに、現代人の生活に必要とされる多くの物質は地球に在っ
た物ばかり、エネルギーは大部分が太陽由来、です。これは、地球
に縛り付けられている人類にとっては、利用出来るエネルギーも物
質も限界が見えてしまった、ということを意味します。

 この限界を克服するには、2つの解決策が考えられます。1つは、
限界を規定している地球の外に勢力圏を伸展する事で、限界点を更
に遠くへ設定し直す外向的解決策。もう1つは、既存の限界内で得
られるエネルギーと資源で人類の生存を可能にする内向的解決策で
す。

 ただし、宇宙開発の初期においては、全ての物資を地球から持っ
て行く必要が有るので、全ての物質が貴重品になります。更に、恒
星近傍以外ではエネルギーも貴重になります。それ以前に、特に手
を加えないでも居住可能な他の惑星が見つかるまでは、宇宙におけ
る居住可能空間は、地上以上に限定された空間になります。したが
って宇宙においては、省エネ技術やリサイクル技術が地球以上に要
求されます。

 要するに、どちらにせよ省エネ技術とリサイクル技術が必要です。


*産業構造
 現代の産業構造は、資源をエネルギーを用いて加工し、製品とし
て消費し、最終的には廃棄しています。廃棄物を資源化している訳
ではないので、資源の枯渇と同時に行きづまるシステムです。また、
資源の製品化に必要なエネルギーも、地上に降り注ぐ太陽エネルギ
ーを遥かに上回るので、エネルギー資源の枯渇によっても行き詰ま
る事が予想されています。

 ただし、環境汚染を資源の浪費と捉えれば、資源利用効率の向上
によって環境汚染規制と経済発展が両立されます。近年の経済発展
は、技術の進化を背景に、そのような方向でなされて来ました。こ
の傾向は今後も引き継がれる事でしょう。

 また、環境汚染は浄化が必要な場所の増加と捉える事もできます。
これは新たなビジネスチャンス(社会生態学的地位)の発生、と考
える事もできましょう。『人間が直接扱うのは危険だ』と言うので
あれば、機械化も考えられます。多様な産業生態学的地位が求めら
れているからと言って、必ずしも人間が従事しなければならない訳
では無いですから。

 いずれにせよ、環境汚染を処理し切る産業構造は、『太陽から届
く単位時間当たりのエネルギー量で稼働可能で、廃棄物を資源化す
るシステム』であることは、容易に了解されましょう。

 我々は、その産業構造の到達点のお手本を自然生態系に見いだす
事ができます。高度に発達した生態系は太陽から来るエネルギーを
充分に利用し、資源にならない物質が蓄積しない仕組み(化石燃料
の製造を除く)になっているからです。そこは分業が行き着く処ま
で行ってしまった世界で、誰も大儲けは出来ませんが、誰も生存が
不可能にはなりません。共存共貧の世界です。

 と考えれば、富豪とは貨幣(与えた幸福感の見返り)をゴミとし
て扱っている人なのかもしれません(『誰にも利用されない資源=
ゴミ』なので、『資源を溜め込む=ゴミの生産』だからです)。

 近代の産業構造は、安定性を排除してでも、システムを単純化し
て生産物を増やす傾向(同規格大量生産)にありました(農薬多用
型農業に似ています)。が、現代では消費者の欲求により多様性が
求められ、現代では多様な製品が販売されるようになっています。
この一事を以ってしても、現状からシフトすべき方向は明らかでし
ょう(単純な構造から複雑な構造への転換−余剰の少なさを多様な
生産でカバー−すると言う事)。もっとも『どこまで?』という問
いへの答は未定ですが。

 少なくとも、この『どこまで?』という問いへの答えが見えるま
では、持続可能な発展(産業構造の変化)が可能だということです。


*二酸化炭素
 二酸化炭素について言えば、日本は欧米より厳しい削減を選択し
ました。京都議定書は日本の影響を強く打ち出せたでしょうから、
少なめの削減だって強弁できた筈ですが、そうはなりませんでした。
また、その批准は議定書の策定とは別のプロセスで行われたのです
から、日本政府は改めて厳しい選択を行なった、ということです。

 省エネ対策が強く進められた日本においては特に、なのですが、
産業によって稼ぎ出す金額に対する二酸化炭素量が決まっている、
と考えられるので、この選択は産業構造の転換を前提にしている、
とも言えそうです。具体的な国策としては、脱重工業化(工場の国
外移転を含む)、情報(知価)産業化、と言った処でしょうか。バ
ブルよ再び、とも言えそうですが、無理っぽいですねぇ。

 もっとも上記の内容は、わざわざ国策として進めるまでも無く、
産業の空洞化、という形で何年も前から現れていたので、今ごろ慌
てている企業は、それだけでも、生き残る能力を疑問視されてしま
う事でしょう。

 ともあれ、既に『チーズは消えてしまった』のです(そういう主
題の本が有りましたが、タイトルを忘れてしまいました。迷路の中
でチーズを探す二匹のネズミと二人の小人の話です。見つけた莫大
なチーズがある朝忽然と消え、二匹のネズミはすぐに別のチーズを
探しに走り出すが、小人達はグズグズしている。何日かして一人の
小人は重い腰を上げ、ネズミ達の後に探し当てる。という話ですが、
教訓が有用なんだと思います。もっとも、まだ最初のチーズにも辿
り着いていない私には無関係な話ではありましたが。多分、誰かが
フォローしてくれる事でしょう。まぁ、誰もフォローしてくれなく
たって、これは文献を明示する義務がある論文では無いからヨシ、
と言う事にしておきます)。素早く対応した処が生残って行くので
しょうね。

 個人的には、二酸化炭素を大量に発生する会社には農業に参入し、
二酸化炭素施肥(密閉空間で通常の大気より高濃度の二酸化炭素を
与える操作。光合成効率の向上により、耐病性と収量が向上する)
で排出二酸化炭素を抑え、出来た農産物を市場に流して欲しいと思
いますが。


*結論−我々は何をすべきなのか−
 以上の議論を踏まえれば、我々日本人の成すべき事はハッキリと
見えて来ます。生活及び産業の効率化、リサイクル産業の開発、で
す。尚、世界の中の日本と言う見地から言えば、『開発された省エ
ネ・リサイクル技術の普及』も挙げられますが、それは喫緊の課題
では無いし、儲けのネタに使うべき話であろうとすら思われます。

 また、工場を経済発展を必要としている(人件費が安いとも換言
できる)国へ移転することも必要でしょうが、これは今さら私が新
たに指摘するまでも無く、現在も各企業が進めている話です。

 要するに、人件費と技術が高い日本人は産業における独創性の部
分を担当すべきで、独創性を担当できない人々は独創性を担当し得
る人々にぶら下がる、ないしはそれらの人々の世話をする、という
形になるのでしょう。


*おわりに。もしくは蛇足
 個人的に、この話のサワリを話した人に『要らないモノを貰った
のに、アリガトウなんて言えない』という反論を戴きました。ごく、
真っ当な感覚だと思いました。が、『要らない』と言えないのは何
故なんでしょうか?。モノに付随する心を受け取って消費するのが
礼儀だから、と言った処でしょうが、モノ余りの現代には心だけ受
けとってモノは受け取らない、という姿勢が必要なんだと思います。

 もっとも、心を受け取るにはモノを受け取らないといけないので、
受け取ったモノが不要な場合には誰かに渡すしかないのでしょう。
これはモノの遣り取りを通して心の遣り取りは済んでいるので、そ
の後のモノの処分は受け取った側の自由だ、という考えに基づいて
います。

 と言う訳で、私なら、要らないモノは受け取った後で、捨てるか、
誰かに上げてしまうか、売るか、します。嫌いな人からだったら、
初めから貰いません。自分に有用であれば自分で使いますが、誰に
とっても無価値であれば捨てるしか無いし、自分の周りの誰かに有
用であるなら、その誰かに渡すべきでしょう。モノの価値が高けれ
ば、自分を気にかけて欲しい人には有償で、自分を忘れて欲しい人
には無償で、としています(逆だと思う人は心理学を勉強して下さ
い)。また、入手した際に有償であったモノの価格は、以下のよう
になります(プレゼントの場合は含まず)。

基本価格=(購入価格−減価償却費+思い入れ)
販売価格=基本価格×(1+購入者に自分を気にかけて欲しい割合)
−1 ≦ 購入者に自分を気にかけて欲しい割合 ≦ 1
販売価格 ≦ 購入価格
販売時期は一般的には、基本価格 = 購入価格/2となった時


 モノ余りの現代日本においては、モノの受け渡しという行為に心
を感じるべきで、モノ自体に心を付随させる(サインを入れると
か)べきでは無いのだろうと思います。以上、蛇足でした。


それではまた。 阿部 靖志


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