[BlueSky: 4306] Re:4273 心的生物を食糧にしても差し支えないか?  Re 。IWC


[From] "Etsuko Tanaka" [Date] Thu, 30 May 2002 22:21:26 +0900

ゲンゴロウさん
田中です。

> > 鯨は、少なくとも生きているうちは、幸せだったに違いない。
> > 幸せだった鯨を食べたら、さぞ美味しいでしょう。
> > でもやはり、死の瞬間の絶望と悲しみは残るでしょうね。
>
> 肉の味に「絶望と悲しみ」が加味されてしまうという意味で
> しょうか?

はい、そうです。
クジラは給食で食べたきりなので、実際はどうだか解りませんが、
牛や豚の場合、食べると悲しみが判ってしまうから、
私は肉が嫌いです。(また自分の話で恐縮です)
「感じる」だけでなく具合が悪くなるときもあります。
幸せだった肉は、とても美味しく食べられます。
でもそんなの、日本では滅多にお目にかかれません。
(またアホなこと言ってるよ、と聞こえてきそうですね・・・)

> 率直に言わせていただくと・・その意味だと、、
> どうも、「肉が美味しいかまずいか?」の話しに
> なってしまうように、私には感じてしまいます。。。。

美味しいかまずいかというのは、単に舌が感じる味覚だけではなく、
その奥に感じる由来、背景、そういうものも全部含めて
美味しく幸せに食べられるか、ということだと私は思っています。
だから、幸せに生きていた鯨は美味しいだろうし、
食べたいと思うのかな、と思いました。
私は食べたくありませんけど。

> 私の話は、「ゴチソウ様」ではなくて、その前の
> 「いただきます」をするかしないかの話をしている
> ような気がするのですが・・・。
>            (違っているかなぁ・・・)

私は「ゴチソウ様」をするための「いただきます」
の話だと思っているのですが・・・ズレてますか?
必要なものを必要なだけ「いただきます」して、
無駄にならないように「ゴチソウ様」する。
それが他の命に対する礼儀だろうと。
そう考えた時、鯨が今の日本の食生活に真に必要なのか?
イワシだって必要以上に捕っているなら、減らさないといけない。
そう思いました。

ゲンゴロウさんのお考えは、「心的存在を殺して食べる」
という行為から人間が「悲しみを感じる」、
または鯨の悲しみをテレパシーのようなもので人間が感じ取る、
ということだと読み取れますが、私の間違いでしょうか。
私の考えはそれとはちょっと違っていて、「心」は「体」に影響し、
切り刻まれて食肉になってもまだ消えずに残っている、と思います。
もちろん、それを食べて感じる人は僅かかもしれませんが、
感じないなら問題ない、といえるのかどうかはわかりません。

心的生物を食べるかどうかも気にかけるべきだと思いますが、
心的か否かの線引きをどうやってするのかよく解らないし、
「一つの生命」と考えれば、鯨もイワシも牛も野菜も人間も
みんな対等です。

私は、魚も植物も、みんな心が通じるような気がしています。
魚や植物が「心」を持っているか?はよくわかりませんが、
体内の水が心を記憶し、伝えるのかもしれません。
一連の議論の発端になった『水は答えを知っている』を
読んで、そう思いました。(全くの想像で発言しています)

捕鯨については、海の中の個体数を正確に把握できるのか?
という疑問があるので、増えすぎて害が出るという説も
素直に信じられないし、
食文化を守りたいという意見はわかるけど
私自身は馴染みがない文化だし、
結局、鯨を捕りたい人は売りたい人なんじゃないの?
という気がするので、賛成はできません。
どうしても必要なら、必要最低限だけ捕ればいいと思います。



▲前の記事へ ▼次の記事へ △記事索引へ △青空MLトップへ

(注)この記事が最新である場合,上記「次の記事へ」はデッドリンクです。