[BlueSky: 4301] Re:4295 京都議定書を批准しても対策は幻


[From] "gengorou" [Date] Thu, 30 May 2002 22:42:15 +0900


こんばんは、ゲンゴロウです。

【 佐藤@ミシガン】
> 最近このメーリングリストは盛り上がりを見せて
>いるようですが、個人の物事の捉え方に話が偏っていて
>イマイチ興味がわかないので、コメントを避けていました。
>教育にしろ、環境にしろ、個々人の物事の捉え方、理解の
>仕方が総論を決めていくのかもしれませんが、他人に理解
>させるより、事実や証拠を基に自分の理解を深める方向に
>興味があるので、ほとんど読んでいませんでした。ま、何
>でもありのMLですので、気楽にやりましょう。

「個人の物事の捉え方に耳を傾ける」ということは、
環境問題という、人の意識に大きく依存している問題を
扱うときに、もしかすると最も重要なファクターになる
ことなのかもしれませんよ。
なので、佐藤さんがおっしゃる↓
「教育にしろ、環境にしろ、個々人の物事の捉え方、理解の
 仕方が総論を決めていく」という考え方こそが、一番心得て
おかなければならないことなのかもしれないと、思います。
この重要性を知った方々がこのMLを立ち上げ、「様々な意見
を聞かなければならないということの重要性」の啓蒙を促して
いると、私はこのMLの趣旨から、勝手に受け取って、賛同し、
参加しております。

> 話は変わりますが、団藤保晴氏の「インターネットで読み解く!」で、
>とても分かりやすい京都議定書の解説が載っていました。
> http://www.dandoweb.com/backno/20020530.htm
> これなどを読むと、如何に日本政府が深謀遠慮なしに政策を決めて
>いるのか分かる気がします。自分で自分の国の首を絞めるような
>事をしてるんだなぁと理解してきました。国民の個人個人の受け取り
>方や、意識を問題にするのではなく、国としてどうすればよいか
>問う姿勢はさすがジャーナリストだなぁと思いました。

世界に含まれている日本なので、
たとえ自分の不利益になろうとも、その目的が世界の利益に
繋がれば、いつかはその恩恵に預かれるという思考は、日本
国憲法の理念にもあり、私は、すばらしい深謀遠慮、なのか
もしれないと思います。
目先の、自己の利益のみを考えていては、環境という、国境
のない問題には対処できないのではないでしょうか。
と、こういう考え方もあるということで、お聞きいただけると
幸いです。

>その本では様々な論文や統計データを検討し直して、
>「環境は悪化していない、それどころか人間に適した
>方向に向かっている」と結論しているのです。もちろん、
>サイエンティフィックアメリカなどの雑誌で批判されたり、
>討論会で議論されたりしているのですが(http://www.sciam.com/2002/0102issue/0102skeptical.html
http://www.sciam.com/explorations/2002/041502lomborg/rennie.html
こういう”皆が当然だと思っている事”に疑問符を突きつけ、
>検討し直すことが出来るのは、非常に健全な事だと思います

同感です。

>(もちろん根拠を提示して)。

これには同感できません。
このMLは、「学者の論文発表」の場ではないと思うので、
私のような素人が、ある推論を「思う」程度に出しても、
知識のある専門化は、受け手として、「そうかもしれない」
程度に参考にすることも可能だと思いますし、またさらに
それを他の方が読んで、別な人が、その考えを参考に,
「よし、それじゃあ、検証してみるか!」とする人がいれば、
いいと、私は思います。

【蛇足です】
望む宝を手に一杯握りたければ、宝ばかりの山に手を入れたら
いいのではないでしょうか。(全ては宝だったりもするけど。。)

MLというシステムは、個々の分離した脳が集まる場所ではなく、
個々の脳が融合して考えるには打ってつけのシステムではないかと。。。

                      ゲンゴロウ

今日、紹介されたHPに、私には耳が痛いお話がありました。

−−−−勝手に引用−−−−−−−−−−−−−−−−−−
http://journal.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=107496
【田口ランディ】

何もしない反原発論者だった頃、「原発は必要悪だ」と言った
男性に思いり噛みついた事がある。「今、この瞬間からすべて
の人が原発にノーと言えば、原発はなくなるのに」と思ってい
た。
「あなたみたいな人がいるから、原発がなくならない。大切な
のは体を張ってでもノーと言うことだ」と。そんな傲慢な事を、
酔って語ってしまった。
なぜだろう。反原発を主張していた頃、私は何もしないくせに、
いつも議論になると「怒って」いた。原発に反対しない人の無
理解と間違いに対して。あの瞬間的な「怒り」は何だったのだ
ろう。
たぶん、私は自分が変わる気がこれっぽっちもなかったのだ。
自分が変わる気のない者は相手を変えようとする。そして相手
が変わらないことに怒るのだ。愚かだったと思う。私のごとき
傲慢な人間から変えられたいと思う人など、この世に居ないだ
ろうに。
かつて、彼女の意見を聞いたら、私はやっぱり怒っていたかも
しれない。でも今は、彼女の意見がなんて学ぶ事が多く、正直
で現実的なんだろうと感心してしまう。
自分の激しい怒りによって自分を嘖み苦しむ人びとと、ディー
プ・エコロジーのワークで会ったからかもしれない。
みんな苦しんでいた。強く反原発を望む人ほど。私が打たれた
のは「反原発」という主張ではなく、その人びとの苦しみにだ
った。自分の怒りに身を焼かれ、苦しんでいた。それは言葉を
越えて私に何かを伝えていた。
願いが強いほど、相手を受け入れなければならない。これは個
に与えられた試練だ。

私はもう「怒り」では発言しない。違う意見をもつ人を批判し
ない。非難しない。それだけは心に決めたのだ。よく耳を傾け
れば、多少の違いはあってもおおむねで協調できる時が多いの
に、怒りが邪魔をしてしまう。

誰も他者から変えられたいなんて思っていない。人はみな自分
から変わるのだ。自分の体験、自分の発見、自分の意志によっ
て。

−−−−−引用終わり−−−−−−−−−−−−−−−−−−











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