[BlueSky: 4241] 「感じる」と「考える」  Re:4237 漱石など


[From] "suka" [Date] Fri, 24 May 2002 10:41:01 +0900

葛貫さん みなさん

   須賀です。

葛貫さん:
> 「考える」のではなく、横尾さんのコラム「遠い視線近い視点」
> にでてきた、仏像のように、半眼で、同時に内と外を眺めて、
> 自分が何を守りたいのか、感じてみた方がよいのだと思いました。

なるほど、この区別は面白いですね。

「考える」というのはあたまのなかでイメージや概念をつかって
いろいろシミュレーションしてみること、「感じる」というのは
出来事へのからだの反応に意識をむけることとしてみます。

そうすると、「感じる」ときのほうが内と外の世界にじかにむきあって
いることになりますね。そのときには、外の世界をそのまま生のかたち
でとらえているのではなくて、自分の内と外があっている状態をとらえて
いることになります。これはひとりひとり別の体験だけれども、だれも
が確かにもっている。

一方、「考える」という作業は、ものごとを客観的にとらえるのに
大切だとされています。でも、実はいったん外の世界へのからだの
反応をとじて、自分のなかに外の世界のミニチュアをくみたてなおす
作業になる。そうすると、そのくみたてかたがうまくいっているか
どうかは、そのミニチュアを外の世界にもどして確かめなおさなく
てはわかりません。実験とか観察、測定などがそれです。あるいは
ほかのひととの対話をふくめてもいい。そうすると、「考える」ことが
謙虚なはたらきであるためには、実験、観察、測定、対話などが
むしろ必要だということになりますね。

そして「感じる」ことと「考える」こととは、どちらもひとりひとりの
なかにあります。ところが、高度に発達した文明社会では、
「考える」という作業がたいへん組織的におこなわれている。
その結果、「考える」ことが「感じる」ことを抑圧してしまうこと
がありますね。

赤瀬川原平の滑稽なエッセイのなかに、脳はからだのなかの
北朝鮮なのか!? というジョークがあったのを思い出します。

その典型と感じられているのが科学でしょう。けれども科学は、
実験、観察、測定、議論などをそれ自体のいとなみのなかに
とりこんでいます。ですから科学は、「考える」体系としてなら
割合かわいい面ももっています。ところが、そんなふうに論じる
ときにみおとしてしまいがちなのが、「感じる」ことですよね。

それでは、たとえばメーリングリストのような場で、「感じる」ことの
体験を交換するにはどうしたらいいのでしょう? 

それはもう「文学」に頼るしかない! というのが僕が思いついた
ことでした([BlueSky 4123])。

どなたか挑戦してみます?

   須賀 丈













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