[BlueSky: 3647] Re:3625  『代議制』について


[From] "tetsuya ota" [Date] Thu, 13 Sep 2001 21:43:56 +0900

太田@阪大です。

はじめに

アメリカを襲った同時テロで犠牲となった方々のことを思うと、なにも気軽に発言で
きません。
ただ、報復という言葉は同じように罪のないひとが巻き添えにするということは知っ
ているつもりです。
どうしたらいいのか、途方にくれてしまいそうですが、
とにかく無気力(諦め→無関心)にならないことが大事だと肝に銘じつつ、考えてい
くことにします。


それではここでの本題に戻ります。
>#3625代議制について
こんなあやふやな議題提起にたいして明確な意見をいただきまして本当に頼もしく、
うれしく感じます。
ありがとうございます。

◆◇−−−−−−−−−−−−−−−−−◇◆

まず、僕なりの前提を提示してみます。
代議制について、もともと大きな二つの違った見解が根底にあるのではないでしょう
か。

【1】 代議士ひとりひとりが広くみんなの意見を集約した態度をとるべきだというも
の。
【2】 代議士一人が、ある程度のまとまった人々の意見を集約しており、
   その(それぞれ違った意見を集約した)代議士が集まった総和が、
   国民みんなの意見であればいいという考え方

ですね。これはどっちなんでしょうか。意見が別れている気がします。
意見が別れていることが意味するのは
みんなそれぞれが曖昧に理解してくるのではないでしょうか。
しかし、二つは違った前提であり、
一つの制度に相容れない二つの前提があるというのはちょっと変だと思うんです。

以下、
みなさんからご指摘いただいたことに対して、僕なりの感想を書いてみました。
細かい、癒着とかの問題は省いて、代議制のシステム的にどうなっているのかについ

焦点をあてています。
自身の解釈を明確化するために、一部に批判的な記述もありますが、ご容赦下さい。
3つのレスのおかげで、考えさせられることが多々ありました。
今回のメールもやっつけてもらえたらうれしいです。

◆◇−−−−−−−−−−−−−−−−−◇◆

#3626 一ノ瀬さん
>端的にいえば
>「一部の利益と全体の利益は、一般に一致しない」
>からです。
>更にいえば、族議員が人々を組織化するために利用している権力は、一種の特
>権であって、国民全般の要望を公平に反映する機能を有していないためです。

これは【2】の発想からきているものと僕は判断してます。
もともと【2】の欠陥としてあげなければならないのは、多数決の欠陥ではないで
しょうか。
ひとりひとりの意見をそれぞれの議員がもっていたとしても、選出の段階
あるいは議案採決の段階では
最大多数の最大幸福の原則が採用されてますから、
数をあつめられるものが力をもってしまい、少数者には抵抗する力が与えられない。

>喩えて言えば、”独占禁止法違反”に似ています。

原理的にそのとおりだと思います。

>利潤追求は企業の本質ですが、独占的な支配力を恣にする企業が現れると、マ
>ーケットメカニズムは停止して、市場は消費者から金銭を搾り取る場に変質しま
>す。そういう行為を許してはいけないと言うことです。

この例はとても分かり易いと思いました。
自由市場が制御機能を内蔵していないように、
多数決の原理にも自己制御機能が内臓されていないのかもしれません。

>故に、憲法第十五条第二項に
>「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」
>と定められています。(でも、国会議員に関する記述はないが、、、、)

ここが注目すべきところだと思います。
「国会議員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」
という記述はやっぱりないんですか?

しかしながら、友達に「族議員がなんで悪者なの?」
という質問をすると、「国会議員はもっとおおやけの利益を考えないとあかんちゃ
う」や
テレビに出演した国会議員が
「議員がもっと国のことを考えないから、いまみたいな政治になったんじゃないか」
ということを言ってたりします。
そういったひとたちは、現在の選挙制度が【1】の理念にもとづいて作られたと認識
しているのでしょうか?
ここで判断するのは早急ですが、現実的にはむしろ【2】ではないでしょうか。

◆◇−−−−−−−−−−−−−−−−−◇◆

>#3627 須賀さん
>そうですね。そしてむずかしいのは「全体の奉仕者」というときの
>「全体」とは何かということです。

ここでのキーワードは「全体」ですね。
なにをもって全体としたらよいのか?
おっきい疑問ですよね。

>僕は今、自宅からメールを書いていますが、仕事をするときの身分
>は長野県の職員です。そのときの全体とは、長野県なのか。その
>「長野県の全体」とは何か。

>たとえば、長野県には中部山岳国立公園や上信越国立公園、
>南アルプス国立公園などの国立公園があります。国立公園です
>から国民全体の財産です。でもその管理の仕事は一部、長野県
>や地元の市町村にもゆだねられている。

>僕自身は公権力を執行する権限をあたえられていない研究職員
>です。でも長野県の自然環境を研究することは、そうした国民の
>財産の管理のありかたに影響をあたえないとはいいきれない。
>そのときにどのような「全体」をイメージして仕事をすればいいのか。

>このことには毎日のように悩んでいます。

公務員としての職責について真剣に考える姿勢は、僕には真似できないものがありま
す。
自分がつくったわけでもない豊かな社会であぐらをかいているヘボ学生として、
垂れた頭があがりません。
正に現場からの声と感じながら拝読させてもらいました。

>たとえばそのギフチョウのような「一部の愛好家」(?)にしか価値の
>わからないものを税金をつかって研究する根拠はどこにあるかと
>いうと、国の「生物多様性国家戦略」「環境基本法」、県の「環境基本
>条例」、国や県の「環境基本計画」などにあるわけです。

>でもみなさん、そんなこと知らないでしょ?
>そんな、だれにもしられていない「全体」って何だろう、と思ってしまうのです。

「だれにもしられていない全体」。
たしかに私たちは公務員の、行政の方々が
行動の方針としている法律や条例や計画について具体的には知りません。
それらが私たちの選んだ代議士によって決められているから、
全体的であるという「タテマエ」があるわけですよね。

>でも、規制をかけるには、法律や条令などが必要で、県議会を
>通らなくてはいけません。そのためには、その政策を公約したり
>支持したりする知事や議員がいなくてはなりません。県民に選挙
>でえらばれたひとたちが行政上の公権力の行使の正当性をになう
>のですから。

>そしてさらにややこしいことに(長野県の場合にみられるように)
>どちらも選挙でえらばれたはずの知事と議会が対立するという
>こともあります。

代議制の基本理念がもし【2】であったとしても
その実行段階においては現実的な問題も大きいようです。

たしかにきっちりと自分が望む公約を掲げてくれる例は稀有ですよね。
唯一の手法としては、自分の考えを理解してくれそうな人に投票して、
ロビー活動をとおして、議員さんに多数派工作を工面してもらうということでしょう
か。
でっかい組織じゃないと無理そうです。

選挙でえらばれた知事と議会に自分の声をとどけるにはどうしたらよいのか?
間接民主主義自体への懐疑に陥ってしまいそうですが...。

◆◇−−−−−−−−−−−−−−−−−◇◆

順番が前後しますが、
>#3638 小宮さん

>> 2「選挙では主権者が自分の利益を極大化してくれるひとに
>> 投票するのは、あたりまえであって

>そもそもここがおおもとの原因であって、本当は、選挙は自分の
>利益だけでなく、広く日本全体の国益を考えて投票するのが
>理想的なのではないでしょうか。日本国民全員が、将来の日本
>(もしくは世界)のことを考えるようになれば、族議員など消える
>のでは?

これは【1】の立場ですね。そもそも選出段階において、
自分の利益だけではなく、
広く日本の国益を考えている候補者が選出されるべきで、
投票者も自分の利益だけを考えないで投票しなければならない
という理論です。

実現の可能性としては、人間の悲しいサガを加味すると疑問符がつくのですが、
正当性がある理論だとも思います。
しかし、問題点として、そもそも「なにが国益なのか」を考える時に、
個人の主体的価値観から逃れられないということを
挙げることができるかもしれません。

例えば友人のNTT西日本係長は
欧米通信会社侵略の危機のなかにあって
NTT西日本の存続がどれだけいまの日本に必要であるかを説いてくれるのですが、
一方で「あんなでっかくて古い体質の会社は、もっと小さくても同じ業務ができるよ
ね」
という友人(もちろん彼はNTT社員ではない)もいます。
二人とも自分の利益だけを考えているわけではないはずなのに、
結果的に前者はNTT族(あるのかな?)と呼ばれてしまうのかもしれません。

◆◇−−−−−−−−−−−−−−−−−◇◆

>#3637 兼平さん

>間接民主制によって私たちは自分の考えに近い人に1票を投じることによって代議

>・参議院議員・地方議会議員に付託するわけですけど。

>選ばれた議員さんは選挙民に拘束されるわけではないですよね。選挙人の意思に左

>されることなく、議会において自由な活動を行うことができる「自由委任」の考え

>にたち、「ひとしく全国民の代表である」ことを意味しているわけですから・・
・。

>ですから、国民の(その地域の)代表となった限りは、できるだけ多くの人の意見

>代表すべきで、業界団体にのみ目をむけ、拘束されるべきではない。できるだけ多

>の人の国益ひいては地球益を守るべき→という結論は無理がありますか?

「選挙の段階では自分の考え方に近い人を選ぶのだけど、
その後においては、死に票となったひとたちの考えも、議員が自発的に
とりいれていくべきだ」という理論でしょうか。
選挙段階ではどちらかといえば【2】の多数決の発想があるのですが、
議員が仕事をする段においては、【1】の方針に沿えということですね。

これは選挙というシステムと、議会というシステムを区別している点で
僕にとっては想定外のことでした。ナルホド興味深いと思ってます。
ではここで考えるべきは、
果たしてどうやって「議員に自己自律性をもたせる」機能を、
システムに組み込ませることが出来るかだと思います。

一般的に議員に自己自律性をもたせる機能を担っているのが選挙です。
投票してくれた人々の期待にこたえねば、次は当選できません。
したがって現行の代議制のままでは、
票田の利害から自身を解放して自由な活動を敢えてする議員はいません。

オンブズマンや市民団体が議員をチェックする機能を代行させるべきという議論も
もちろん可能だと思います。
チェックする団体が、議員を次回も当選させる力はありませんが、
これだけ無党派層の多い、無所属票が多い時代なら、
公開された議員評価によって投票動向は大きく振れます。
だれがどうやって評価するかが、つまるところの大問題でしょうか。

◆◇−−−−−−−−−−−−−−−−−◇◆

最後に

僕がこのことについて考え始めたきっかけは、
代議制というシステムのなかに欠陥を含んでいるなら、
言い換えると、「代議制というシステムが自己制御機能をもっていない」のなら、
それを制御するシステムを構築しないといけないのでは?ということからです。

問題としてまず、【1】と【2】が違うのに、その認識が混濁しているのではないか
と考えました。
ぼくは【2】の考え方をとっていました。
そして族議員とは【2】の制度から生まれるべくして生まれたものだと感じました。
ところがメディアではむしろ
【族議員、あるいは所属団体の人格的問題(「彼らは利権をむさぼっている」)】
としてとらえられていたことに不満をおぼえました。
システムの欠陥を指摘しないで、彼らの人格を指摘している限り、
このシステムは根本的に変化しない、
むしろ問題点をあいまいにしてしまわないでしょうか。

で、それを制御するシステムについては足りない脳で思考中です。
第三勢力(NGO/NPO)? インターネット空間の公共圏? 
なんなんでしょうか。

稚拙な文章が長々と続きました。
失礼しました。

OTA Tetsuya
tetuya@hcn.zaq.ne.jp



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