葛貫@4児の母です。
後藤さん:
>また、一般論として、こどもはいろいろな人に愛されないと、いろいろな
>ひとを愛せない、と思います。子守りをされて、子守りすることを知る、
>というか。
>僕は、小学生のこどもが、環境問題に心を痛めて欲しいとも、原爆や戦
>争を悲しんで欲しいとも、思いません。この時期に必要なのは人間愛の
>養成、集団的正義の養成なのです。後は本人の社会的自覚(思春期)を待てばよい。
私が通った中学・高校と学校では、教師を採用する時、幸福な(richではない)子供時代をおくった人という選抜基準があったという話を聞いたこ
とがあります。
そして、当時は、自律できないことはも恥ずかしいことなので、校則は持たないという方針でした。
とても少人数の私立女子校だから成り立っていたことだと思いますし、今は、どうなっているかかわかりませんが・・・・。
中学3年生、小学6、4、1年生の子供達を通して、いろいろな「先生」といわれる人にお会いしてきましたが、生きていることを肯定的にとらえ、
「〜たい」という自発的な欲求を持って自分自身が楽しんでいる方と、「〜べき、〜はず、」に囚われて、その遵守に追われている方では、子供達
が受ける取る豊かさが全く違うなと言うのが実感です。いろいろな大人がいるのだという、いいサンプルだと思えればいいのでしょうが、過剰適応
しようとする子供は苦しいかもしれません。
良識のある謹厳実直な努力家サリエリと、ハチャメチャなモーツアルトを描いた「アマデウス」という映画があります。
サリエリは、いくら真面目に努力しても、モーツアルトには及ばないことに気付いている。その才能に気付けば気付くほど苦しくなり、親切な振り
をして、モーツアルトに近づき、精神的・感情的に彼を追い詰め潰してしまう。
今の教育は、サリエリの大量生産を目指していているのかもしれません。
それは社会の現状維持にとっては大切なことなのかもしれませんが、新しいものをつくり出して行く力を潰しすことは避けてほしいなと思います。
勿論、モーツアルト・タイプが身近にいたら大変、余程の物好きでない限り、他人やたまに会う友達ならいいけれど、同居人としては御免蒙りたい
と思うでしょうけれど。
この許容量が豊かさの指標になるかもしれません。
Y.Kuzunuki <kuzuny@geocities.co.jp>
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