[BlueSky: 3124] Re:3096- ミーム


[From] Ken Goto [Date] Fri, 16 Mar 2001 18:04:31 +0900

後藤@帯畜大です。

須賀さん【3096】:
> ただそこで起こっている出来事そのものは生身の個人にとってそれ
> だけですまないおそろしさをふくんでいる。そのことを表現したい
> という気持ちは、僕にはよく理解できます。
さすがに「気配りの須賀」、面目躍如たるものを感じました。でも、何
が恐ろしいのか、僕には理解できない。鈍感だなぁ。

ゲンゴロウさん【3112】:
> ちょっと、怖ろしくて、読めないかもしれませんが、、
> 図書館に注文します。でも、、やだな〜読むの、
> なんか、人の価値が落ちるようで。。。
う〜む、こういうことだったのか?

葛貫さん【3108】:
> 自由意志の自由度は、知識の量や多様性、重要さの順位付けの
> パターンをどれほど持っているかにも依存するわけで、与える
> 情報をコントロールすることにより、誰か/何かが与えた限ら
> れた選択肢の中から主体の自由意志により選ばせることもできる
> のだということを、心に留めておいた方がいいのかもしれないと
> 思われます。
シャンジュー「ニューロン人間」(みすず、原著1983)に引用され
ていたスピノザの一節をおもいだしました【人間が自分を自由であると
信ずるのは、彼らが自分の行動については意識しながら、その行動を決
定している原因については意識していないからでしかない】。

また、【芥川(侏儒の言葉):理性のわたしに教えてくれたものはひっ
きょう理性の無力だった】

・・・【2972】【3095】で申し述べたとおり、人間としての能
力的制約をはじめ、時代的、文化社会的制約を受けた上での「自
由度」です。これが、人間としての上限ですね。この枠の中で、
個人差が生まれます。

ゲンゴロウさんのおっしゃる「人の価値」って、何でしょう?
全知全能の神の「自由度」無限大をひとに望んでいたのでしょうか?

子供のころみた西遊記の映画のラストシーン(散々暴れまくった
孫悟空が、実は、釈迦の掌の中だった)は今でも僕の印象に残っ
ています。釈迦はにこにこしてたような。

和尚であれば、さしずめ、煩悩からの自由を求めて彷徨していらっ
しゃると拝察いたしますが、われわれ凡人、煩悩に翻弄される
日々を送っています。凡人の自由度を低める最大の原因はここに
あるように思いますが。

ところが、国民の大多数は実は自由なんか求めていない、という芥川の
洞察は事実でしょう。自由には責任が伴いますが、わが国の、世を挙げ
ての無責任体質を見れば明らかでしょう。つまり、国民の大多数にとって
「自由度」は小さいほうが居心地がいい、ってことですね。

ゲンゴロウさん【3112】:
> >*************
> >私は何をしているのか?私はあたかも選択を迫られている--私の
> >科学的な理解に照らして私はどのような生き方をすべきか決めな
> >ければならない--かのように感じている。そして、もし私が遺伝子、
> >表現型、ミーム、およびミーム複合体からなる一時的な集合体以上
> >の何ものでもないとすれば、どのようにすればいいのか?
> >*************
> >という問いが、心に残りました。
> そうなんですよ〜、これなんです。(コロンブスの卵・・・)
いろはにほへとちりぬるを・・・

パンセの基調の一つは、人間の偉大と悲惨の矛盾を考察する点にありま
した【人間は自分が惨めであることを知っている。だから、彼は惨めで
ある。なぜなら、事実そうなのだから。だが、彼は実に偉大である。な
ぜなら惨めであることを知っているから。】【空間によっては、宇宙は
私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇
宙をつつむ。】

ゲンゴロウさん【3112】:
> 私は、遺伝子にも逆らいたいけど、自分のミームも疑いたいのです。
> それで、人間だと、納得しようとしています。(涙)
逆らう「べき」相手は何か、を考えたほうがよいのではないでしょうか?
遺伝子に逆らうことは不可能ですから。ひとの自由意志も、思考する能
力も、人としての「人らしい」遺伝的プログラムの発現です。ですから、
遺伝子に逆らうとは、自由意志を捨て、思考を停止することになるので
です。

・・・喜怒哀楽レベルで言えば、普通は喜ぶことに哀しんだり、という
ことでもあります。ま、生存できない、ってことです。

ドーキンス「利己的な遺伝子」には、【しかしわれわれには、こ
れらの創造者に刃向かう力がある。この地上で唯一われわれだけ
が利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのだ。】とあ
りますが、完璧な誤解ですね。
・・・【3095】でも指摘しましたが、ドーキンスは、人間は
本来(遺伝的プログラムとしては)、行動特性として、
「純粋に」利己的である、と考えており、利己と利他の矛
盾としては捉えていません。つまり、愛情もない、と考え
ているわけです。で、それを「叩き込め」というとんでも
ない指針を導いているわけです。

さて、「ミームも疑いたい」についてですが、マルクス流に言えば、
「自分のミーム」と現実との矛盾に遭遇したときが「自分のミーム」の
「誤り」(があるとすれば)を解決するチャンスなのではないでしょう
か?
・・・思春期であれば、自己のすべてを「内的に」批判する時期なので
すが。

ゲンゴロウさん【3112】:
> しまっていて、それに逆らえない。。もう脳を作られてしまって、
> ほんとに逆らえないんです。
鈍感な僕を許してもらうとして続けますが、ここらあたりに、ミームマ
シン概念に囚われたようなイメージを受けます。逆らうべきは、ミーム
マシン流な視点だったりして。ごめんね、鈍感で。

ただ、まじめに逆らう姿勢を貫けば、分裂症にも似た危険な状態に陥っ
てしまうのでは、という一抹の不安を感じるのです。

葛貫さん【3108】:
> #ゲンゴロウさんは、「主体の自由意志」と言われるものの怪しさ
> #のようなものについて、考えていらっしゃるのでは。
> #情報を繰れる人の場合、自由意志を持っていると思い込んでいる
> #自分を外側から見ているもう一人の自分みたいなものがいないと
> #本当に「自由意志」なのかどうか、よくわからないのでは、
> #と思ってしまうのですが。
ここも言葉だけの世界ならもっともらしく感じるのですが、いざ、「本
当にまじめに」「もう一人の自分」をもとうとすると、抜け道がなくな
るような危険性を感じます。言い換えると、二重人格の意図的実践と変
わることがないように思えてしまうのですが、僕の誤解だろうなぁ。

今の自分を信じて一向に構わないし、信じられないのは病的でさえある、
と僕は思います。

・・・「ミーム・マシンとしての私」という言葉を真に受ければ、私は
単に洗脳されただけのお人形、というイメージですが、それは、
「受けを狙った」単なる言葉の遊びでしょう。

キリスト教的風土の中では、人間は崇高なまでに高等である、と
いう考え方が根強く残っている、と思うのですが、そうした考え
方の人々に対しては、ある種のショック療法的な効果は期待でき
るかとは思います。

われわれは、昔から、お猿さん,と呼ぶ文化風土の中で育ってき
たわけですが、西洋的「ミーム」に翻弄された戦後の学校教育は、
「人間の崇高性」を「植え付ける」のに一役買ったかもしれませ
ん。、

いずれにせよ、自由意志は、主体の能動性を一つに統合する機能
なのでしょうし、どのような体験も主体の「能動的」反応によっ
て「のみ」、主体性の中に組み込まれているのでしょうから、こ
の能動性を揶揄し、ある種の人々に強迫観念を植え付けるかもし
れないような思想は、僕は好きになれません。

・・・もちろん、物事のある一側面を取り上げて、それを全体だ
とする視点で、誤謬を含んでいることは【3095】で申
し述べたとおりです。

飛びかう情報に対して批判的態度を貫く(一歩距離をおく)、という程
度で十分なのではないでしょうか?

・・・もちろん、この姿勢を貫くことも難しいのですが、もう一人の自
分をもつことより、ずっと易しいことです。

保守的メノムに「翻弄」されても、それには悩まぬ鈍感な後藤@帯畜大
でした。


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