[BlueSky: 3103] Re:3087 ミーム


[From] "gengorou" [Date] Mon, 12 Mar 2001 21:51:52 +0900



広木さん、識さん、須賀さん、後藤さん、葛貫さん、
       いろいろ、ありがとうございます。
そして、皆さん、、こんばんは、ゲンゴロウです。
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須賀さん、いつもコメントを、ありがとうございます。

ミームというものの捉え方についてなのですが、
後藤さんのお話もそのようですが、須賀さんのお話を
読んでみて、どうも「見方」というか、「強調」の
仕方で、物事は違った面を見せるように思えてきまし
た。もう、ミームの話ではなく、「物事の捉え方」に
関係した話のようです。
それは、私には、とても興味がある話です。

−−−変化における主体と客体?−−−

「変化」において、それに関わるもの、今回の場合は、
「情報」と「人間」の話ですが、変化に関係する物事を
「主体」「客体」の様な関係において考えてしまうと、
「加害者・被害者」の様な、あるいは、「変化させる物・
変化させられる物」の様な関係が生まれてしまうようです。
それが、どうもキーポイントなのかもしれません。

ミームの伝搬においては、「人の脳」も「情報ミーム」も
共に、変化の「受け手・働き手」の様になっているようで、
どちらもどちらになる様です。
つまり、変化の中にあっては、その変化に関係するものは、
すべて主体にも客体にもなっている。相互作用関係になって
いる。

−−−−

ミームとかジーンという情報によって変化させられた「もの」、
それ自体が、実は情報の産物であるどころか、もう「情報その
もの」になっているのかもしれません。変化の中にあっては、
人の脳も、情報である。
つまり「情報」が、形になった存在が私たち?というか、
生命体?なのかもしれません。

情報系として、ミームのことを考えると、書かれた文字(実体)
が脳に入り、脳に(実体)を作り、その脳(実体)が考えてい
るのですから、脳も文字と同じ記号じゃないか!と思えてきま
した。情報系として、脳は「立体的な記号」でもあると。。。

虫の脳は情報系としては、情報を遮断してしまって、繋がって
いないけれども、人の脳という外界を記憶する脳は、時間的に
も空間的にも繋がってしまっていて、脳は、情報(記号)を
インプットできて、アウトプットも出来るものということに
なる。そして、正確なインプット→アウトプットでは、情報に
変化は生まれないので、変化のひとつである「進化」も生まれない。
しかし、
不正確というか、変化させることが出来るのが人間の脳。

広木さんの言おうとしている事は、おそらく、
ミームという物は、もし無意識に脳の中を通過させると、
そのミームが主体になる。だから、ミームというものに
対抗するために、そのミームの本質を捕まえ、あくまでも
人間が意識的に情報を吟味し、通過させる、あるいは、黙る
ことで通過させない。というような、人間主体の理性的な
希望があるのではないでしょうか。
つまり、ミーム!ミーム!とミームを信奉して、人間本来が
出来ることを諦めるな!という思いがあるような気がしてき
ました。

−−−−−−−
須賀さんのおっしゃっていることを、咀嚼、反芻(そしゃく、
はんすう)してみたのですが、この理解でよろしいでしょう
か。

で、結論は、主体などないと言う結論でよろしいのでしょうか。
つまり、「人間も主体として「ある」ことは出来ない」という、
ことにもなります。

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ゲンゴロウ。。。。


雑談:
−−集合生物とミーム−−−
「集合生物」とこの「ミーム」の件ですが、まだ
私の中では結びついていません。なんか、関係するかも
しれないくらいです。強いて結びつけたいとも、今のと
ころ考えてません。(関係があったらおもしろいけれど)

−−SFについて−−−
【須賀さん】
>ゲンゴロウさんの観点は戦慄すべきSF映画のようにも思え
>ます(たぶんこれはまちがっているので反論してください)。

私は、自分が分からないことを考えているので、それは「こう
ですよ」と言われるよりも、「SF(空想科学)です!」と
言われた方が良いのかもしれません。
でも、「想像はなんとかの母」というので、「SF的」、
「空想」すること自体を「ダメ!!」という意味で使われ
ると、ガッカリします。
私は、未知との遭遇が好きなので。。。

−−−人の限界−−−−−−−
【須賀さん】
>言語あるいは文化というシステムを自覚的に対象化して
>あやつれないと、言語や文化にあやつられているように
>みえてしまう。

「あやつる」で、思い出したのですが、人間にとっての
道具とは、実は「操っている」のではなく、「操られな
がら」でしか使えないと、私は考えています。
例えば、棒高跳びくでも、棒を道具として使うのではな
く、人間がその棒のおもりの一部になる感覚でないと。。
そのことで、「操るときに」「操られる」ということも
同時に、必然的に発生しているのが、事実だと思います。
別な例では、自動車の運転とか。。。

−−−私の幸せ−−−−
失礼な事をいいますが、このMLの人たちは、私にとっては
ほんとに魅力的です。
私、その中で、好き勝手なことをいいながら、自分の考えを
整理できるのは、とても幸せです。須賀さんの説明は、大変
にむずかしい内容でしたが、めずらしく私には強烈に分かり、
どう、表現して良いのか分からないのですが、感動すら覚え
ました。ただ頭は、パンパンになりました。。。(苦笑)

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感謝感激。。

















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