ゲンゴロウさん、おはようございます、葛貫です。
> 【葛貫】
> >優しいゲンゴロウさんを、泣かせちゃうかもしれないけれど、
> >映画の「禁じられた遊び」は、死を悼み、お墓をつくって上げる
> >「優しい私」を演じる心地好さを知ってしまった子供が、小動物を
> >殺し、お墓をつくり続けるの話だったような気がするのですが・・・・。
普段、1ページの報告書も、300ページの論文も「要するにこういうこと」
と150字程度に要約する仕事をしているので、身も蓋もない書き方に
なってしまって、ごめんなさい。
> 私,あの二人の子どもは,なんであんなに,たくさんの
> 墓を作り始めたのか,分かりませんでしたし,まだ分かっていません。
この時点では、子供達にとって死は、他人事で、遊びでしかなかった。
> 飛行機が去り,しばらくして親の体の下から這い出てきた女の子は,
> 揺すっても起きあがらない両親を残して,歩き始めました。
> その時の彼女は泣いていなかったような。(昔見たので,よく覚えてません)
> 泣いていなかったのは,死(別れ)を知らなかったからではないかと。。。。
はい。ここで、大切な者の「死」を体験するのですが、この時点では
「死」が何を意味するのか、リアルにわからなかったのだと思います。
> しかし,映画の最後のシーンでは,
> 修道院で独りぼっちになった少女は,初めて泣きました。
> 「ミッシェ〜ル!」と叫びながら。。初めて泣いた。
> 彼女は,あの時,初めて,別れの悲しさを知ったような
> 気がします。一人になり,成長する彼女には,きっと,
> たくさんの悲しみが訪れる。。
大切な人が死んで泣くのは、「生」を絶たれたその人の無念、哀しさ
を思いやって泣くのでしょうか。その人のいない時間を生きて行かな
ければならない、自分が辛く、悲しいのでしょうか。
この場合、後者なのではないでしょうか。
> で,思ったのですが,
> もしかしたら,大人もそうなのではないかと・・・
ベトナム戦争に対する反戦運動が米国で高まったのは、当初の予想に
反して戦争が長引き、言い方は悪いのですが、社会からはみ出て軍隊
に入った人だけではなく、夫、息子、友人として社会的に受入れられて
いた人達にまで戦死者が広まり、戦争がゲームではなく、大切な者の死
を賭してなされているリアルなものであることを、大衆が自覚し始めてか
らだ、という話を読んだことがあります。
(何で読んだか思い出せない、ごめんなさい)
> 「もしかすると,大人のやっている戦争こそが,,
> 禁じられた遊びなのではないか」と思いました。
そうですね。小動物を使った子供のお葬式ごっこは止めるのに、
自分達がしていることには気付かない。
> 人間の脳の深い部分の「知りたい!」「ハッキリとさせたい」という,
> そんな無意識(超意識のようなもの)が,働いているのでは
> ないかと思ったりしています。
自分でないものと向かい合うことにより、自分であることを識るのだと
思います。でも、別に自分であることを正当化し、殺し合う必要もない
のでは、と思うのですが。
自分でないものが存在しないと、自分であることを実感できないのに、
自分と異質のものと出逢うと「ふ〜ん、面白いね。ま、いろいろだ。
どっちが心地好い人生を送れるか、生き様の対照実験(?)しましょ。」
と、放って置くことができず、同化させたくなる。抵抗されると排除したく
なってしまうのは、何故なんだろう。
どのような体裁の良い大義名分を掲げていても、実際には資源や利権
を巡る争いがほとんどなのでしょうけれど。
では。
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