こんにちは、葛貫です。
須賀さんの【2774】を拝読して、
人が集まり、様々な情報が行き交う場所に馴染むと、数の力を
使えば、困っているものたちを救えないか、という期待持って、
情報を発信する場合が多々ある。誰かが、それに関るか関らな
いかには、「縁」のようなものが関係するのかもしれない。
それぞれの提案者にとっては「人生を賭けた一大事」でも、
「縁」があるかないかで人は見向きもしないってこともありうる
のだ。
というような、糸井重里さんのコラムを思い出しました。
(もとのメールマガジンを消してしまっているので、不正確です。)
提案者の「そのもの」に対する思い入れや、「正義は我にあり」
という意識が強いほど、賛同しない人間に対する否定的な感情が
湧き上がり、激烈な言葉を吐くようになるんだろうな、と思います。
人を動かすきっかけとなる「縁」は、必ずしも単語の激烈さや、
ねじ伏せるような語調で呼び覚まされるものではなく、心の琴線に
ふれる、あるいは、神経にふれる、キーワードのようなものによって
呼び覚まされるのかもしれないとも思いました。
グチュグチュと抽象論をしかけるのは、動きだすきっかけとなる
自分にぴったりのキーワードに出逢いたいという望みの現れなの
かもしれない等と思う、今日この頃です。
これは、ディベートの結果如何に関らず、原理に従い自ずと結果
が定まっている科学の問題ではありませんが・・・・・。
御自分の価値観をきちんと示し、それをthe onlyではなく、one ofと
位置付け、他の価値観にも耳を傾けようとする須賀さんのオープン
な姿勢、大人だな、と思います。
対話に耐えられる芯の強さがあるからなのかな。
本題からすっかり、はずれてしまいました。
> 「サルはかむものだ」という認識をもってつきあいを考えていくのが
> 繁栄した野生生物としての「人類の矜持」(カッコ内あるすばらしい
> 環境派経済人のことば)というものではないかと思います。
はい。
噛みついたものを殺してしまうという極端な態度にでるのではなく、
噛みつかないように飼い馴らしてしまうのでもなく、野生の在り方を
尊重しつつ、適切な距離を保つ方法を模索できたらと思います。
道具を発達させることにより「食われる」という現象を日常で
目にすることがなくなり、また、医学を発達させて来たヒトは、
何かを諦めることや個体の死を受入れることが難しくなっている。
それが幸せなことなのか、どうか、私には、よくわかりません。
では。
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