[BlueSky: 2765] TV と TV ゲームの影響力


[From] akira   [Date] Fri, 19 Jan 2001 01:21:33 +0900

akiraです。

佐川さん:[2762]
> 昔の鬼ごっこや隠れんぼやおままごとも子供に大きな影響を与え
> ていました。そして、鬼ごっこなどの伝統的な遊びの中には盗み
> や騙しや暴力が埋め込まれているのです。
> さらには、昔から「盗み」は子供たちの楽しい遊びだったのです。

確かに、子供の中には、我々大人が奉ずる価値観を笑い飛ばすような
破戒的な要素が多分にあります。例えば、ある時期、子供はやたら性的な
冗談にはまることがあります。それをすることによって大人たちが困り
果てる姿を見ることが楽しくてしょうがないといった風情でもあります。
また小さな盗み、典型的には柿泥棒や万引きなど、ひとつのゲームとして
の破戒行動が突出する時期もあります。それは通常はしかのようなもので、
時期が過ぎると、彼らはけろっと夢から冷めた様に、社会的な常識の体現
者となっていきます。

昔の遊びも現代のテレビ・ゲームもそのような子供の特性をよく表しています。
ただ、両者には根本的な違いがいくつかあるでしょう。

昔の遊びは日常の延長線上にありました。家庭における自分、学校における
自分、地域社会における自分、子供社会における自分。すべての自分がそれ
ぞれ微妙に役割を変えながら、それでも、それは一貫した連続した自分でした。

そして、その自分は、何よりも生身の人間がぶつかり合う中で定位された、
生身の自分でした。子供たちが集団で柿泥棒という反社会的な遊びにふける時
でも、そこには自ずから内的なルールがありました。生身の交感に基づいた
相互規制が存在していました。明らかな自己中などは、その相互規制の本能
によって、厳しくたしなめられたのです。

それは、ある意味、我々の身体がひとつの細胞社会として、相互規制によって
ホメオスタシスを得ているのと同じように、また生物社会が、相互規制によって、
動的平衡を得ているのと同じように、ひとつのバランス感覚だったのです。

それは、子供たちが主体的に作り上げていく世界でした。彼らは主体的に世界を
作り上げ、その世界に影響を受けて成長し、その成長が世界に反映していく。
そんなフィード・バックが生きて働いている世界でした。

テレビ・ゲームではかなり話が違ってきます。
それは第一に、あらゆる日常性から隔離された別世界です。日常的な自分とはどの
ような意味でも連続性を持たないキャラに乗って、子供たちは仮想世界を駆け回り
ます。そこでの経験は何の実体も持たない仮想です。キャラは成長しますが、子供
は決して成長しないのです。
そして、その仮想世界はすべて誰かによって用意されたものです。どんなに意外な
ハプニングも、誰かによって設定されたものであり、同じプロセスをたどれば再現
可能なものです。そして、気に入らなければ、いつでもリセットして、消し去ってし
まえるものです。
そこにあるのはプログラムされたシステムだけ。昔の遊びの様な生身の交感も
なければ、フィード・バックもありません。相互規制も、感情も、共感もスクリーン
という幕によって遮断されています。

その中で、消費者に媚びるシステムにあおられて、子供たちは様々な破戒的な状況
を体験していきます。殺人、拷問、レイプ、略奪、嘘、裏切り・・・ 実社会の中で
このような行為をしたら、相互規制のシステムが働いて、必ず何らかの罰が与えられ
るでしょう。けれども、テレビ画面の中でどれほど悪辣な破戒を行っても、プレイ
ヤーの子供がそのために実社会で制裁を受けることはありません。

ちょっと前に、インヴィジブルという透明人間ものの映画がありました。
実体をなくし、社会とのつながりを失った透明人間は、ひたすら破戒に走りました。
テレビ・ゲームの中でプレイヤーが味わう破戒の悦楽は、この透明人間の悦楽と
重なるものがあります。それは脱アイデンティティの悦楽です。

アイデンティティには必ず『べしべからず』という規範が伴います。その規範は
人の情動にとっては不自由でもあるのでしょう。だからこそ、「もしも透明人間に
なれたら・・」という設定は、非常に魅力的なものなのです。大人になり、アイデン
ティティを確立するということは、この透明人間への誘惑を乗り越えて、規範を
内面化し、実体を持つということでもあります。

その大切なプロセスの途上にある子供たちが、いたずらに煽情的な仮想世界で、
ひたすら情動・衝動を機械的に満たして、透明人間の悦楽に浸っていくというテレビ
・ゲームは、やはり危険だと思います。

最近多くの少年が、異常とも思える衝動的な犯罪に走っていますが、生身の人生
というものは、決してリセットして「チャラ」にすることはできません。すべての行
為は、死ぬまで自分について回る。それが現実であるということを、彼らがどれだけ
自覚できていたのか。
これはテレビ・ゲームだけではなく、現代社会全般に言えることなのですが、どう
も、『人生ナメている人間』が大量生産されているような気がするのですが・・・

考えてみれば、銀行の破綻なんかもよく似た構図ですね。とことん行き詰まったら
ゲーム・オーバーで、張本人はのうのうと暮らしながらリセットされる。汚職にまみ
れた政治家も選挙でリセットすれば涼しい顔で先生面。
そうそう、環境問題なんかもそうでしょう。
サリンに等しいかそれ以上の猛毒を日々大量生産しながら、とことん行き詰まったら
ゲーム・オーバーになって、リセットできると、そう思っているのかも知れません。

リセット病はむしろ大人社会の深層をむしばんでいる。
またまた脱線しました(笑)






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