識です。
> 過飽和溶液に、善き種(善さの定義は難しいですが)を下げ、それを核
> にして透明な大きな結晶を創り出すこともできます。
> でも過飽和溶液に、振動等、ちょっとした刺激を加えることにより、ワッ
> と小さな結晶が析出して、それで、終わってしまう場合もあります。
> 今は、流す方向を見つけられないエネルギーが内にこもっている過飽
> 和溶液のような状態が社会にあるように感じられます。
>
> 共同幻視を醸し出す言葉、新しい物語に安易に引っ掛かると、こんな
> はずじゃなかったのに、ということになってしまう。また、その言葉を発
> した本人も、こんなつもりじゃなかったのにと、いうことになてしまうか
> もしれない。(まあ、それが、ほとんどだろうけれど。)
> 指向するプロセスは一緒でも、目的が違う場合もあり得るわけで・・・・。
> 言葉を発する方も、受けとる方も、用心深くなければならないのだと思
> います。
葛貫さんのおっしゃること、すとんと心(私そのもの)に落ちます。
私たち(と言い切れるか?自問自答)の使っている言葉は、客観的
に伝えられる情報は数量で表すことのできるものに留まり(この範囲
で科学と呼ばれる共通概念が存在しうる)、真善美という本質的(私
にとって)な問題を論議するには、未だ完成の域に程遠いものと感じ
ています。
だからこそ、このMLのように、それぞれの言葉を交わすのは、より
優れた情報伝達子(ミーム)の進化を促進するのではないでしょうか。
その果ての実りは、大きいなものにならないでしょうか?
では---
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