葛貫です。
本題からはずれてしまいますが、
澤口さん:
> ようするに世の中は非常にノイズの多い情報体で、信号処理
> のフィルタしだいではどうにでも有意味に演出できる、と。
何かで、「お祭り」にであったの人の反応パターンには、
1.お祭りに参加して、一緒に騒いで楽しんじゃう
2.たこ焼き、綿飴、お好み焼き等々、売っているものを食べまくる
3.お祭りをやっている様を外から眺める
という3つのタイプがある、という話をきいたことがありました。
一番面白いのは、このどれでもなくて、お祭りを仕掛ける(意味を
つくりだす、意味があるように演出する)ことなのかもしれない、です。
お祭りのきっかけは作れても、結局の所、制御しきれず、仕掛けた
本人の予想とは違うものになってしまう。
それを面白いと思えるか、怖いと思うか・・・・・。
「つくりだす人」は、そんなこと考えないのかもしれない、です。
「生が結局は、各種の時間潰しの堆積であるならば、その合間に、
ちょっと夢中になれる、あるいは夢中になった振りのできる気晴
らしがあることは悪いことではない。」 (「されどわれらが日々」
柴田翔 文藝春秋)、という言葉を思い出しました。
「生が結局は、各種の時間潰しの堆積であるならば」という仮定は、
生存のための条件がある程度満たされている場にいる人間が抱く、
贅沢な想いなのかもしれません。
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