[BlueSky: 2347] Re:2340 労働と教育


[From] Ken Goto [Date] Mon, 11 Sep 2000 13:08:37 +0900

青空MLのみなさん、こんにちは。
                   後藤@帯畜大です。

葛貫さん【2340】:
> こんにちは、葛貫@4児の母です。
>
> >中澤さん【2331】:
> >地域と社会が教育に冷たいという指摘
> >は,多くの都市で地域社会が崩壊している現状を考えれば空疎に聞
> >こえます。むしろ地域社会の再生を謳ってほしかったと思います。
>
> この「地域の再生」にも、難しい問題があるように思われます。
> 「地域のため、皆のため」というスローガンは、耳に心地好いけれど、
> 私には、この言葉が、一種の脅迫のように聞こえます。

地域という言葉でひとびとが思い浮かべる内容は、人さまざまなのだなぁ、
という実感を抱きました。

以前にも「地域」に関してメールしたことがあると思うのですが、「地
域の崩壊」という負の言葉で表そうとしている「地域」は、少なくとも
僕にとっては「理想(に近い)郷」です。

僕が幼少年期を過ごした地域は、少なくとも幼少年期の僕にとっては
「理想郷」に近かったのではないか、それが、時代とともにどんどん壊
されていった(ように、僕には見える)。僕にとっての環境問題は、この
「地域の崩壊」に対する不満そのものである、といってもよいかもしれ
ません。【100】(?)で、ターザンごっこのできる街、について述べまし
たが、その地域はまさに、ターザンごっこのできる街であったのです。
その特徴を思いつくままに四点列挙してみると、、、

(1)住宅街は里山に囲まれた田園地帯であった。(里山と田園の定義
については自信ない)。

(2)このため、こどもの(日常的な)遊びは、地域の自然と密着した
形で行われた。

(3)こどもは、地域の中で、年少者として出発し、年長者へと成長し
ていった。つまり、「守り守られる(愛し愛される)」という基本的人間
関係が、地域での日常的な遊び体験の中心にあった。言いかえると、子
どもグループによる共同保育が現実に行われていたといってよい。

・・・この点は、それ自体で極めて重要な点ですが、その外にもメリッ
トがあります。親の育児負担が今よりずっと軽いというだけでな
く、「親(大人)のおしつけ」がとても少なくなります。

(4)近所づきあいは、「長屋的」であった。大人どうしが「お互い様」
の関係にあったようで、当然、子どもたちは、地域のいろいろな大人に
よっても守られてきました。

良い側面しか思いつきませんでしたが、何か悪い側面もあったのかもし
れません。ただ、この「地域の崩壊」の基本的要因は(あったかもしれ
ない悪い側面によるものではなく)「農業切捨て政策を背景とした高度
経済成長政策」にある、と僕は考えています。

いずれにせよ、地域の性格は、その歴史と立地などによって極めて多様
なのでしょう。

葛貫さんが仰る「地域による干渉」で思いつくことは、「暮らしの場」
が地域に無くなればなるほど、この思いは強くなるだろうな、というこ
とです。或いは逆に、「暮らしの場」が地域に密着すればするほど、こ
の「干渉」から逃れにくくなるかもしれない、ということですが、、
「干渉」という意識、概念自体は、「理想郷としての地域」には無縁の
ものであるような気がします。

・・・お互い様、という他者依存的な甘えを認め合う関係がなければ、
人間関係は「きつく、厳しい」ものになると思われます。が、都
会の雑踏を放浪することを好む都会人にとっては、それは「鬱陶
しい」関係に違いありません。

「干渉するな」と撥ね退けるためには、「自立した大人」として
「全責任」を負う必要があります。以前のメールで、正しく「強
く」朗らかに、と述べましたが、僕の想定している「強さ」は、
そのような「全責任」を負う強さではありません。事実、僕自身
は大変な甘えん坊であり(厄介ものであり)、子育てでも、近所の
方々に大いに甘えてこれたこと、深く感謝しています。

・・・【子育て・・・までの諸々のことは、本来、個人的な体験】
葛貫さんのこの一節を誤解してしまっているかもしれませ
んが、他者にお世話になる(甘える)ことは、子どもにとっ
ても好ましいことではないか、と僕なぞは考えるわけです。

もちろん、他者にお世話になったのは、そのような「考え」
からではなく、「甘え体質」からなのですが。しかし、
「結果」として、子どもたちはさまざまな大人たちから可
愛がられることになりますから、その財産は計り知れない
ことになります。

以上、理想郷としての地域はあった、でした。実は、↑、葛貫さんの
【2346】が届く前に書いたものなので、↓に私見を述べます。

葛貫さん【2346】:
> そのなかで、「星の王子さま」にでてくるバラのように、唯一無二のバラと
> して大切にされる体験を幼い子供ができるのか、唯一無二のバラとして
> 大切にする体験を親ができるのか。乳幼児期に、そのような育て方をさ
> れることが、人にどのような影響を与えるのかは、その子供達が子育て
> をする時になってみなければわからないのだと思います。
 仰ることは大変ごもっともなことだと思います。
世に幼児虐待する親が少なくないという時勢であってみればなおさら、
のことかもしれません。また、葛貫さんが事例として挙げていらしたよ
うな「親の勝手な都合」が子育てに優先する傾向も強いでしょう。
 しかし同時にまた、親による過保護や溺愛(両者はいってみれば自己
愛のようなものかも)は、幼児虐待傾向に比べ遥かに多く、根強くもある
ように見えます。
 両者の中庸のどこかに理想的な親子関係があるのでしょう。ただ、親
は「完璧な親」「完璧を努める(装う)親」である必要は全くありません
し、「完璧でない親」の方がずっと好ましいでしょう。ま、親も人間で
すから。また、子育てにあたる際の「気持ち」と現実の子育ての「方策」
も、一対一の単純なものにならないところが難しい。「気持ち」が善で
あるからといって、必ずしも「方策」としての善を導くわけではない、
かもしれない。
 或いはまた、核家族化と「地域の崩壊」によって、子育てにおける親
の負担は過重になり、また、「子守り」修行もろくにせずに親になって
しまう親も増えてきた。
・・・前述のような地域での子どもの遊びは、(非自覚的な)「子守り」
修行にもなっています。
 さまざまなケースがあって、一概に述べることは難しいですが、唯一
無二のバラに注がれる愛情が親からのものであれば申し分ないには違い
ないけれど、地域の子どもであったり大人であったり、親戚のものであっ
たり、、、といろいろあるし、また、ある方がずっと好ましいことは誰
の目にも明らかだろう、と思います。親がいない孤児だっているわけだ
し。
・・・犬も、愛情を注いでくれた人間に、愛情を抱くでしょう。血縁は
関係ありません。
 もちろん、だからといって、親の「責任放棄」が許されるわけでは決
してありません。
 僕が言いたいことは、親だけが一身に責任を負うべきではないし、負
わないほうがよい、ということです。ただし、最終責任は親にあること
に変わりはありません。再三申し上げてきましたが、可愛い子には旅を
させよ、ということです。
 そして、かつての「理想郷」(↑)のように、地域=共同保育所という
関係があれば、それは理想的な子育ての方策になるのではないか、と思
うのです。僕にとって、環境問題の原点はここにあります。


後藤 健
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生命を考える http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms
帯畜大 生物リズム学 Phone (& Fax): 0155-49-5612


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