[BlueSky: 1996] Re:1990 少年犯罪 雑感


[From] "Y.Kuzunuki" [Date] Wed, 17 May 2000 10:50:52 +0900

こんにちは、葛貫です。

後藤さん、お久し振りです。
昨年の夏、相談に乗って戴いた数学面倒臭い娘は、何とか数学に
取り組み(始めてくると思っていたより面白かったらしいです)、
無事、高校生になることができました。ありがとうございました。

5月15日の朝日新聞の「おやじのせなか」に狂言師の野村満斎さん
の「小さいころは個性を否定され、型にはめこまれることが嫌で、
父を恨んだ時期もありました。しかし、おかげで絶対的な自信をもて
るだけの技術を身につけられた。洗練された方の制約があってこそ、
その中で工夫や奥行きが生れるのです。」という言葉が載っていました。

同じ時代に生きる者がコミュニケーションをとるための共通言語とい
うか、ある程度の言語や数字による表現の型を知っていた方がいい。
そうでなければ、対話が成立させるために、延々と言葉の意味を説明
し続けなければならなくなってしまう。「ゆとり教育」と言われるもので、
この土台を損なってしまっては、困るなと思います。
個性を表現する前に、最低限のルールを身につけること、ルールを変
えたいなら、合法的(?)に変える術を身につけることが、大切なのかも
しれないと思いました。

後藤さん【1990】:
>「〜のはず、〜べき」という価値観なり価値感覚と「身体感覚」を対比
>「すべき」かどうか、若干の疑問を感じました(同時に育成できる「は
>ず」では?)。

はい。両者のバランスをとりながら、というのが、理想なのだと思います。

>それはともあれ「身体感覚」の軽視が進んで来ていると
>いう点に関しては同感ですが、件のバスジャックの少年がこのことと関
>係しているという点にも疑問を感じています。

【1985】に書きましたように、私には、彼が「自分だ」と感じているものと、
周囲が彼に演じることを課してくる役割の間に、大きな落差があったの
ではないか、と思われました。


外部から与えられる「君って、こんなもの」という客観的な?(相手の都合
が多分に含まれる)規定に対して、「自分が感じている(こうありたいと望ん
でいる)自分」を主張することは難しいし、主張することを牽制しあう風潮が
あるのでは、と思います。セルフイメージと、外部からの規定の間に、適切
なフィード・バックが働けば、小規模な修正を繰り返すことにより、破滅的な
行動は避けられるのかもしれません。彼には、自分の生に対してイニシア
ティブを取れない苛立ち、絶望のようなものがあったのでは、と思われました。

事件が関係者に与える影響を現実的に想像できなくなってしまっているの
かもしれない(自分の現実の生活感が薄いから?)と思いました。

#これは、自分の4人の子供達との生活を通して、私には、そう思えたと
#いうだけで、事実とは程遠いものである可能性が大きいです。

>満員車両ではみんな我慢していますが、ちょっと空いた車両では、ちょ
>っと体に触れただけで激昂する人が増えていませんか?

出典が何であったのか忘れてしまったのですが、人にはパーソナル・ス
ペース(他者が入ってくると不快に感じる身体を取り巻く空間、相手との
親密さや、当人が持っている権力・権威により、許容範囲が変わってくる)
というものがあるという話を読んだことがあります。


満員電車だと、接触したのを詰め込まれた荷物のように思えるけれど、
お互いの顔が見え、人として認識できる空間ができると、パーソナル・ス
ペースを侵されたように感じるのかもしれません。
自家用車もそうですが、電話、インターネット等の通信機器の発達により、
言葉や文字だけの遣り取りが多くなり、身体の存在が希薄な関係が増え
たように思われます。物理的・心理的、両方のパーソナル・スペースが数
年前に比べ、急激に広がっているのかもしれません。

>愛情は愛される経験を積むことによって育つ感情でしょう。「教える」
>ものではありません。孤独や屈辱が本人の限界値を越えれば「危険」な
>状態ですね。
・・・中略失礼・・・
>上述のような「許容度の低下」した社会においては、「攻撃」
>と感じる閾値が低くなっているので、例えば、おとなが他人の青少年を
>叱ることが「危険」な状態になっています。

個人にしろ、社会にしろ、いい子(都合のいい子、調子のいい子、潜在し
ている傷に触れない存在感の薄いどうでもいい子)だったらという条件付
きの庇護が多いように思われます。この「いい子」の許容度が低下すると、
叱られることは、「親・社会の都合に合わせろ」と命じられているようなも
ので、子供の方は、相当苦しいだろうな、と思います。


抵抗するに値するガッチリとした「親・社会の価値観」があれば、まだマシ
なのですが、上の世代が「このような質の未来をつくるために、このよう
な社会体制でやって行く、そのために、このような規則をしく」という明確な
ヴィジョンを提示できない。堅固な叩き台がないので、親の世代の延長か、
そのアンチで自分のあり方について考えるということもできない。
これも苦しいだろうな、と思います。
#先月の末に、自分にとっての堅固な叩き台であった義父が亡くなりました。
#これからは、アンチ義父の勢いで生きて行くわけにもゆかず、
#いや、どうしようと、途方に暮れています。

まとまりのない雑感になってしまいました。
ではでは。




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