[BlueSky: 81] Re60:議論の3つの水準


[From] Nagamitsu Teruyoshi [Date] Tue, 13 Jul 1999 13:28:25 +0900

須賀さんおひさしぶり、中沢さんはじめまして。
森林総合研究所北海道支所のながみつともうします。

このリストでの発言ははじめてです。
「メールは環境にわるい」とのメールでの発言は、なかなかブラックなジョークでした。

仕事は、植物の繁殖にかかわる生態と遺伝の研究です。
この研究自体は、森林の保全事業(運動)とはほとんどかかわりがありません。
森林の保全事業は、関係者の社会経済的な合意形成によってきまるからです。
合意形成のメカニズム自体は、社会科学(経済学、倫理学)の範疇でしょう。
その合意形成に生物学の研究結果がどの程度必要なのか、私は興味があります。

こういう観点から、[60]の「議論の3つの水準」は適切なわけ方だなあと感心しました。
引用します。

(1)たんに「干潟の生物多様性を守れ」とか「東京湾の生物相を破壊
する権利は人間にはない」といった環境保護論

(2)「多様な生物に触れるすばらしい機会を奪うな」といえば,
それよりはやや強いですが,それでも住民の好みの問題に過ぎず
(しかも系統的な住民の意識調査は,なされていないと思います),
同じ好みの問題である,「第二湾岸道路は蘇我や木更津の住民の
利便性のために必要だ」という論理とは対等でしかありません。

(3)ところが,小倉紀雄さんがデータで明快に示したように,干潟の
アサリの汚水浄化能力は埋め立て地に予定されている流域下水処理場
の浄化能力を大きく上回り,しかも流域処理場と違って定常的な
汚水流入を必要としない点で優れているという論理は強いです。

この3つを、ある土地(干潟)の機能(多様な生物のすみか、道路用地、汚水浄化)を利用するケースとして定式化すると、

倫理的規制あり
(1)特定の機能を利用する方法が倫理的にきまる場合
多様な生物のすみかとして利用
(合意の根拠:環境保護倫理)
倫理的規制なし
(2)複数の機能を利用するそれぞれの方法を関係者の自由意志で選択する場合
多様な生物のすみかまたは道路用地の機能を利用する案のどちらかを選択
(合意の根拠:2つの機能を共通の尺度で比較)
(3)特定の機能を利用するいくつかの方法を関係者の自由意志で選択する場合
汚水浄化の機能を干潟または下水処理場で利用する案のどちらかを選択
(合意の根拠:2つの利用を共通の尺度で比較)

となるかとおもいます。

とりあえず、共同体の倫理的規制がはずれたら個人の「このみ」の問題になります。
ある「このみ」がべつの「このみ」よりこのましいという合意形成は、おなじ尺度を関係者が共有したとき成立します。このとき、関係者が合理的ならば、たとえ自由に選択してもある「このみ」に合意するでしょう。

中沢さんが、(3)の論理が「つよい」とかんじられた理由は、汚水浄化の機能をはかる尺度が十分に客観的なので、2つの利用案がその尺度で比較できるから、だと私はおもいます。

ところが、多様な生物のすみかの機能と道路用地の機能とを比較する尺度はあるでしょうか?そういう尺度があったとして、関係者に共有されるでしょうか?
もしなければ、倫理的規制にたよらざるをえないでしょう。

私は、楽観的に、そういう尺度はあるとおもっています。私たちの日常生活は、とても比較できそうにない物や機能に、たえずそういう尺度づけをしてはじめてなりたってるといえます。
だって、私の1時間の労働と、1kgの豚肉と、1本の映画鑑賞と、1週間分のガソリンにおなじ価値をつけ、実際にそれらをいろんな人と交換して日常生活おくっているんですから。
そういう尺度づくりに、生物学が貢献できるのか、あるいは、経済学でことたりてしまうのか。あるいは、一歩さがって、私たちがしばられている倫理的規制(経済成長神話、物的幸福神話)をあばき、「ただしい」環境倫理で洗脳すればいいのか。う〜ん。



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