[BlueSky:06737] Re: 絹とカイコ RE: [06729] 天然素材


[From] "SUKA Takeshi" [Date] Tue, 10 Jun 2008 22:56:10 +0900

澤口さん 稲垣さん みなさん
                  須賀です。

あいかわらずスローな反応で恐縮です。4/11-13あたりのお話へのご返事です。

稲垣さん:
> 宗教や信仰が絡んでくると、すでに環境問題ですらないかもしれませんね。

澤口さん:
> なぜ環境を保護するか、言い換えればなぜ人類は生き延び続けなければ
> ならない義務を何者に対して負うのか、と考えれば、これは科学的に結
> 論が出せる話ではなく、最後は宗教観に落ち着くのだろうと思います。

澤口さんのこのご意見にううむ、とうなって、そのまま黙ってしまいながら、
「最後は宗教観に落ち着く」とはどういうことだろう、と考えていました。

このメーリングリストでも何度か話題になったことのある鈴木秀夫(1978)
「砂漠の思考・森林の思考」(NHKブックス)という本をたまたまよんで、
何かを動かされたような気がしました。ずっと前から手元にあった本なのですが、
ふと惹かれるものを感じて、よみはじめたらあっというまによんでしまいました。

いろいろと面白いことが書かれている本なのですが、宗教についてはキリスト教と
仏教を対比しながら、宗教とそれをうみだした風土との関係を大胆に推論して
います。極端に縮めてご紹介すると、豊かな自然環境では、その豊かな自然に
対応して多神教が発達するが、気候変動などの影響で生活環境の砂漠化がすすむと
ちょっとした自然環境の変動によって共同体の運命が決定的に左右されるように
なり、その変動の要因=神として考えられるものも、自然環境を構成する要素が
単純になっていくのに対応して、「嵐」、「太陽」など単一のものにしぼりこまれて
いくようになり、一神教が成立する。ただし、多神教、一神教というのは、人間の
思考のパターンが生み出すものであるので、この両極のあいだにさまざまな
中間型が存在する、というようなことが書かれています。この議論が、1回限りの
出来事としての人類史と気候変動の歴史とのかかわりのなかに位置づけられて
論じられているのが面白いところです。

わたし自身は無神論者なのですが、社会やコミュニティや自己の外にあって
意識的にコントロールできないものを「神」という名でとらえる、という
ことにすれば、上の議論はよく理解できるように思えます。

このことをふまえて澤口さんのコメントについてあらためて考えてみると、
「環境」とひとことでいっても、それについて考えるひとがどのような
宗教、あるいは世界観をもっているかによって、そのとらえかたには
さまざまなちがいが生じてくる余地がある、ということになりますね。
このように考えてみて、澤口さんのご意見が、わたしなりにわかるような
気がしてきました。

ところで、前のメール[BlueSky:06733]でわたしは次のように書きました。

> くわしくは知りませんが、少なくとも野蚕の場合、繭から絹糸をとる工程も
> 一様ではなくて、“蛹が中にいる繭を茹でたり”するのとはちがうやり方を
> する場合もあるようです。

このことについては、さきのメールでご紹介した松香光夫・栗林茂治・
梅谷献二著『アジアの昆虫資源―資源化と生産物の利用―』(農林統計協会刊行
1998)という本に記述があったように思うのですが、今その本が手元にあり
ません。本来なら、このことをお調べしてからコメントするべきと思うのですが、
すみません、このこととは別にわたしなりの新発見があったので、お知らせします。
上のわたしの文を受けるようにして、

稲垣さん:
> 仏教国のタイ・ラオス・ビルマなどでは殺生が禁じられているので、養蚕も蚕の

>化を待って、中身の居なくなった繭を使って糸をとると、呉服屋さんで聞きまし
た。

澤口さん:
> これはちょっとあり得ないことだろうという気がします。
> 羽化後の繭は製糸に使えませんし、彼の国では僧侶を除いて普通に肉食・
> 魚食が行われております。第一、養蚕地域では繭を茹でた後の蚕を食べる
> 風習もあるやに聞いています。

というやりとりがありました。このことについては、具体的な事実を
集めてみることが何よりだと思いました。その意味でも、上の松香ほか著
(1998)をあたりなおしてみなければと思っていたのでしたが、そればまだ
できていません。しかしこのことが気にはなっていましたので、前のメール
[BlueSky:06733]の末尾でご紹介した、森本喜久雄(2008)『カンボジア絹絣
の世界―アンコールの森によみがえる村―』(NHKブックス)をようやく入手
しました。まだよんでいないのですが、ぱらぱらとめくっていたら、次の
ような記述に出会いました。

“IKTT(引用者注:クメール伝統織物研究所。著者の森本さんがカンボジア
立ち上げたNGO)の絣布ができるまで” という巻末にある工程の記述の
なかにある一節です。

“糸引き 繭のなかでさなぎとなったカイコが羽化する前に、繭を素焼きの
壺で煮て、生糸を手引きしていく。このときの手引き加減が、生糸のクオリティ
を左右する。(その多くが仏教を奉じるクメールの人びとのなかには、カイコ
を「釜茹で」にすることには殺生になるといって養蚕をいやがる人もいる。
だが、わたしは「これは無益な殺生ではないのだ、これで皆が暮らしていける
のだから」と村人を説得することもある。)”

これは一例ですので、野生の蚕(野蚕)がすべてこのようにして利用されて
いるかどうかは、これだけではわかりません。しかし、それにしても今回の
話題に関連していろいろと考えさせられる文だなあ、と思いました。

  須賀 丈






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