荻野さん、JAWAYさん、返信、ありがとうございます。
JAWAYさんwrote:
> 訳がわかっているだけなら打ちひしがれる事も有ると思いますよ。
> 「諦めの境地」ってのは「訳がわかっている」状態ですから。
今の自分に至る時間の流れので起きたできごとや、ここにいる自分
とつながっているものたちにより形作られる、時空にひろがる因果
の網のひとつの結節として存在する以外、他にありようがない、
ということが、不自由や諦めではなく、安心の根拠になっているの
でしょうか。
荻野さんwrote:
> それから、ついでに佐世保の事件ですが、
> 私が知りたいと思ったのは、加害女児が、
> どんな食事をとっていたか
> 睡眠は充分だったのか
> 逆上がりは出来るのか
> といったようなことでしたが・・誰もそんなことは気にしていないようで・・
「人が勝手に選択できるようにみえるのは、 ただかれが観念的に
行為しているときだけだ」とすると、もっと、「どんな食事をとっ
ていたか、睡眠は充分だったのか」等、土台となる身体を支えてい
た生活面をワイドショー的な視点からではなく、もう少し真面目に
見直さなければならないのでしょうね。
小学生だと、食事は保護者に依存しているだろうし、チャット等に
はまってしまうと睡眠時間の自己管理もまだできそうもないし。
> そもそも祈りと念仏も次元の違う行為でしょ…
親鸞の念仏と、一偏が広めた念仏は、少し違う気がします。
時季がくれば、driadさんが仰しゃりたかったことがわかるなんて
こともあるでしょうかしら(^^;。
ありがとうございました。
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