ゲンゴロウです。
みなさん、こんばんは。
葛貫さん、こんばんは。
いつもレスをありがとうございます。
葛貫さん:
> 私は、神というと、祈ったり、問いかけたりせずにいられない時に
> 対象となる、全てと共にあり、全てを観てきた存在、というような
> イメージを持っています。
・・・私の、、場合も、そんな感じのようです。。。
言葉に出てきませんでしたので、
葛貫さんの上記の話は、、とても、、ありがたかった。。です。
また、
下記のお話も、ありがとうございます。
> 祈りも、問いかけも、その果ては、
>
> God
> grant me the serenity
> to accept the things I cannot change,
> the courage to change the things I can,
> and the wisdom to distinguish the one from the other.
>
> - Niebuhr, Reinhold
>
> 神様、自分では変えられないことを受け容れる平静さと、
> 自分で変えられることを変える勇気と、
> そして、その違いがわかるだけの知恵をお与えください。
すみません。よごして申し訳ないのですが、、
私なりに味あわせてください。
「神様、どうか、、・・・を与え賜え。。。」と祈るとき、
与えて欲しいものは、おそらく、、自分が大切に思うもの
なのでしょう。それを考えると、祈りには、、強い主張、ある
いは、自分への戒め、があるようです。
なので、その方の祈りは、
「分からないこと(知らないこと)を、分からない(知らない)と
認めることが出来、知っていることに固執しないようにしなけ
れば、物事は分からない。。だから!分からないこと(知らな
いこと)を分からない(知らない)と認めることが出来、知って
いることに固執しないような力を与えて下さい。」
と言っているように聞こえます。
> というラインホールド・ニーバーの祈りに行き着くのではないか、
> 科学は、“the wisdom to distinguish the one from the other”
> の一助となり得るもので、祈りたい気持ちと対立するものではない
> ように思われます。
その方は、
「物事を知る者は、おごらず、自らに甘んじない者である」と、
言っているように感じます。
私なりの感じ方ですが、「おごらず、甘んじない」というそれは、
「祈る」時の、、身のありかたと同じようです。
> 神が、実際に、いようが、いまいが、祈らずにはいられない、
> 祈っても、問いかけても、これが、永遠、不変、絶対的な正解だよ、
> という保証付きの答えは返ってこないし、何の保障も得られやしな
> いだろうな、とわかっていても、否、わかっているからこそ、祈ら
> ずにはいられない時もあるだろうなと思います。
簡単に、「なるほど」とは言えない軽い私。。。。
−−−−
「神」のことは、私には何かを探すための道のようなもの
なので、「神」については、ほんとうは、、語れません。
でも、葛貫さんの、「祈らずにはいられない」という人の、、
その時の深さ、それに神的な深さを感じてしまいます。
「足元から舞い立つ蛍が、星空に混ざり込んでいくよう」な
そんな光景、そしてそれを見たときのような・・・。。
なんなのだろ、、これは、、という感じが。。
__________________________________________________
Do You Yahoo!?
http://bb.yahoo.co.jp/
(注)この記事が最新である場合,上記「次の記事へ」はデッドリンクです。