[BlueSky: 5361] 「種の性質」と「個の性質」の差異


[From] "ゲンゴロウ" [Date] Wed, 10 Sep 2003 23:32:51 +0900




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「種の性質」と「個の性質」の差異
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【出来るけど出来ない】

 私は日曜大工や機械修理が、けっこう好きだ。暇があると、
コチョコチョと何かをいじっている。趣味なので、リラックス
して行うため、いつまでも素人なのだが、物を作ったり、治し
たりした後に、いつも思うことがある。

「私が何かを作った。治した。出来た」と思っていても、実の
ところ、それは、私の力で出来たのではなく、元々、出来るは
ずのものを私が使用していたから、私にも可能だったのであっ
て、私のような凡人にも、使えたり、操作できたり、作れたり
する物を、誰かが提供してくれているから、「私にも出来る」
ということが、私に起きるのではないだろうか、と、そんなこ
とを考える。


【人間と人類】

 私は人間だ。なので生物学的な種としては人類なので、当然、
他の生物よりは優れているはずなのだが、実際の私は、ほとん
ど何も知らない。それに気が付くと、私という存在は人類とは
ほど遠いような気がしてならない。

人間というのは、誰もが、人類と呼べるほどには優れていると
は言えないのではないだろうか。ここに、個と種の性質の違い
があるような気がする。個は個の性質を持ち、種は種の性質を
持っているのではないだろうか。その二つは分けて考えなけれ
ばいけないような気がする。
 特に、人間という生物は、役割分担があり、それぞれの個の
能力が種全体の能力を作り上げているので、種である人類には
優れた能力があるが、個にはそれほどの能力はないようだ。

 文明とか、科学力、認識力といった基準で考えた場合、人間
は集団(種)としては生物の頂点にいるのだが、個である人と
して考えると、その生きる力は、他の動物に劣るような気がす
る。人間を種で考えた場合と、個で考えた場合とでは、まった
く違った人の姿が現れるような気がする。

 種とは集団全体の性質であり、個は個体の性質でしかないと
いうことを、明確にしておかないと、私たちの様に、集団的な
生き方をする生物の個々は、その当たりから、おかしな思考に
なり、妙な思想を持つに至るのではないだろうか。

ここに人間としての存在の在り方があるような気がする。例え
ば生きる意義を考える場合において、人間である私たちはこの
種と個の差異を意識して考えなければ決してまともな意義は見
つからないだろう。

 私が自分を見て、自分が人類にふさわしくないと思う理由は
その辺りにあるようだ。そのあたりのことを間違えないように
しなければ、自分というものを見失うのではないだろうか、と、
最近思っている私がいる。


【神の戒め】

 私は大根の料理は作ることができるが大根は作れない。農家
の人は大根は作ることができるが、大根の種を作ることはでき
ない。科学者は新しい大根の種を遺伝子操作で作る作ることは
できるが、遺伝子の仕組みそのものを作ることはできない。人
類は、やがて遺伝子そのものも作ることができるだろが、作る
私たちの存在を作った過程を作り出すことはできない。
私たちは、それに救われているのだろうから、きっとその驚異
を忘れてはならないのだろう。
 人は、その救いと驚異を忘れないために「神」という言葉を
作り出し、忘れないための戒めとしたのだろう。「神」という
言葉を理解しない者、神という言葉を安易に使う者はこの戒め
に気づかぬ者といえるのではないだろうか。

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     ゲンゴロウ
      gengorou5656@yahoo.co.jp
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群(むれ)と呼ばれるような個の集まりで生きる生物の性質と、
個という形で生きる生物の性質など、生物の性質には、この
「集団と個」の区別が必要な気がする。



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