[BlueSky: 4613] グローバル化について知ろう ( Part2)


[From] "Y.mataro.E" [Date] Fri, 11 Oct 2002 21:07:54 +0900


 こんばんは。遠藤@埼玉です。
 遅くなりましたが、8月25日に開催された、BeGoodCafeのトークセッショ
ン「ベスト・ゲームについて」をお伝えします。あくまでも、一個人が趣味で
まとめたレポートであることをご承知おきください。
 長文&クロスポストご容赦願います。

 Be Good Cafeトークセッション
 グローバル化について知ろう(Part2)
 ベストゲームについて  
 
 日時:2002年8月25日 19:15〜19:55
 場所:BeGoodCafeVol44 Za House3F
 出演者:ノリ・ハドル(環境運動家)
      きくち ゆみ(グローバルピースキャンペーン)
 通訳:きくち ゆみ
 
 
ノリ・ハドル
 冒頭、ノリ・ハドルさんが書いたバタフライの紹介。
 7月末に来日し、この本に基づいたワークショップを全国でやっていた。
 絵を担当した人の言葉「僕は何もやっていない、これは神からの贈り物だ」
 
 ワークショップの前に深呼吸、肩の運動。
 
 自分の生活費を切りつめた始めたのは理由がある。
 私の両親は私に、小さい頃から「世界にはほとんどものを持たないという人
がたくさんいるということ」を教えてくれた。小さい頃からそういう人を助け
るために、もっと公正な世の中を作るために、自分に何ができるのかというこ
とを考えていた。私が自分の仕事を辞める決意をした時、まずやらなければい
けないということは、質素に生きることだということだ、ということを考えた。
そのことについては本(最新刊「バタフライ」)の中に書いている。
 ’70年に仕事を辞めた。私自身質素な生活をするということは、社会的、
経済的な理由でそういうふうにしか暮らせない人たちに親しみを持って生きる
ことができると考えた。このことはアメリカでは話さないが、私のいまの生活
はアメリカでは貧困ラインのずっと下に属する。税金申告をしたら政府からカ
ネが戻ってくるだろう。だが私は「新しい生き方ができる」ということを証明
したいためにそういうことをしない。
 ’71年、日本に来て、私の生活はもっと質素になった。今日その時の友人
がこの会場にやってきている。共同通信の記者をやっていた方だ。

 ここで、当時インタビューした共同通信の元記者・佐藤さんの話 「日本人
の生活について聞いた。彼女は当時『日本人はそば屋に行っても、自分で使っ
た割り箸を捨ててしまう。日本は材木が少ないのに、なぜ割り箸を捨てるんだ』
と聞いてきた。その時彼女は、割り箸を入れる箸箱を持ってきていた。当時、
そんなことをする日本人はいなかったから、私はびっくりしてしまった。『日
本に来たから日本のものを使うのはもったいない』といい、経済的に生活して
いた」 

 きくちさんの解説
 ’70年代、ノリ・ハドルは日本で有名になった。それは佐藤さんがノリに
ついて書いた記事「300円の東京生活」などで、彼女の質素な生活ぶりが、
当時の日本人にとってすごく新鮮だった。そのころの日本は高度成長時代で、
早くアメリカに追いつけ追い越せという雰囲気で、世の中は「消費は美徳」と
いう流れになっていた頃に彼女はアメリカからやってきて「アメリカのマネを
してはいけない」と訴えていた。

 私が日本人に伝えようとしていたメッセージは、「お願いだから、アメリカ
の最悪の部分をマネしないでください」。アメリカにも日本にもいいところが
ある。自分のルーツを見てください。日本人の先祖を振り返ってみてください。
彼らがシンプルに、優雅に生活を送っていたことを。私達がものを使い捨てに
するということは、人々を「使い捨てにする」ということ。振り返ると、その
瞬間瞬間に対して十分注意を払っていないということだ。
 日本に来た時、公害を見てすごくショックを受けた。’70年代前半の日本
がどんな状況だったか、ここにいる人は想像がつかないだろう。水俣病、四日
市ぜんそく、カネミ油症などいろんな公害があり、たくさんの人が死に、病気
にかかった。
 ’72年に3ヶ月間かけて、北海道から沖縄まで「公害見学」と称して日本
中を旅してまわり、(日常品は)着替え1組だけで、テープレコーダーとテープ
とカメラを持ち、公害問題のあるところで人々にインタビューをし、開発が起
きそうな場所で人々に取材をした。旅の途中に出会った環境活動家に勇気づけ
られた。日本人がはっきりとした目標を持った時、どんなにうまく協力できる
のかというのを現場で見た。
 最初日本に来た時、日本人が早く動いてエネルギッシュだったため、日本人
はすごい人生の目的をもって、それに向かって一生懸命やっていたのかと思っ
たくらいだ。目的を持って生きていると感じたエネルギーがどこから来るのか
を見極めたくて日本に滞在を決めた。だが同時にそんなエネルギーを持った日
本人が、あのような環境問題をを許しておくのが理解できず、そういったこと
を理解するために4年間日本に滞在し、日本の環境危機を理解してもらうため
の本を書いた。その間に知ったことは、日本の問題はほとんどアメリカから来
ているということを学んだのだ。「アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪を
ひく」という言い回しがその時あった。どうして私達は気の狂ったような開発
をしているのか、どうして私達はもっと一緒に協力して働けないのかと思った。
 そこで私はアメリカに帰り−日本の問題がアメリカから来ているのがわかっ
たから−、日本とアメリカのチームを組んで、9ヶ月かけて自転車でアメリカ
大陸を横断した。カルフォニアからフィラフルデアまでの7,500kmを自転
車で旅行し、ジグザグにアメリカを渡った。この狂った経済的・社会的システ
ムを作ってしまった問題のルーツは何だろうと理解しようと思った。
 アメリカ旅行を終えて本を書き上げた時、問題に対する答えの中心は「愛」
に違いないと思った。私達がお互いを本当にケア、愛し合うしあうことを学ん
だら、狂ったような社会の中に、小さい、愛に満ちたコミュニティのようなも
のを生み出すことができると考えたが、どうやって実現したらいいのか、具体
的な行動は浮かばなかった。ちょうどベトナム戦争の終わる時期で、アメリカ
人は絶望感に襲われていた。どうして彼らは絶望感に襲われていたか?ある人
が私にいってくれた。「’60年代の美しい音楽−ジョン・レノン、ボブ・ディ
ラン−、ウッドストックとかのイベントもあった。世の中は一瞬で変わると思
っていた、でもね、我々はすごくナイーブだった。社会の構造をそのままにし
ておく基本的な構造がどれだけ根深いかに関して、我々はあまりにナイーブだ
った。わたしが日本にいた時は、たくさんのアメリカ人が絶望に襲われていた
時期で、私はそのことを知らなかった。戻ってきた時は、私は(バタフライに
出てくる)イマジナル細胞みたいな感じだった。みんなでなにができるのか考
えましょうといったが、アメリカ人は私を見て少しおかしいんじゃないかと思
っていたが、同時に興味を持ってくれた。ここに集まってくれた人と同じよう
に、私はたくさんの人にインタビューをして、だんだん仲良くしていき、彼女
が一緒に作ろうとしている社会に関しての理解が深まったが、その時は新しい
社会をどうやって具体的に作っていけばいいかというキーを持ってなかった。
 ’80年に初めて、ソ連の外交官が私に鍵を渡してくれた。私が「鍵」とい
っているのは何を意味しているのかというと、彼は私に、どうすれば何か素晴
らしく、新しいものを作っていけるのかというこというヒントをくれた。
 物語は「バタフライ」の中にも入っているが、短くするとこんな感じだ。
 私はその時、次の本を書くためにインタビューしながら旅をしていた。旅行
の幸運を祈るパーティーを、ニューヨークの友人が開いてくれた。そのパーティー
に、ソ連の外交官も招待されてやってきていた。ユーリーもこの中にいた。パー
ティーに来た時、外交官の顔は怒っていた。「何かイヤなことあったのか?」
と私は訪ねた。問題は、彼らは皆本物ではないことだ、彼らはみな仮面をかぶ
っていて、彼ら自身が本当は何者なのか、ちっとも見せていないということだ、
といった。
 私は彼の話を聞いて泣き出した。私は泣きながら「本物だ、あなたも本物だ、
パーティーに来ているみんなもも本物だ」といった。彼は私が泣いていたので、
すごくショックを受けていた。ソ連の外交官は「ゴメン、あなたを傷つけよう
としたわけでない」といいだした。「ソ連人としてアメリカに住むことが、ど
んなに大変かという事をわかってほしいんだよ。僕がソ連人だということだけ
で、みんなが僕を憎んでいるんだ」といった。
 私は「それは本当ではない、私はあなたをていない嫌っていないここにいる
人はだれもあなたを嫌っていない、私はあなたの姉弟だといったでしょ?私達
はみんな世界中で一緒になって、何か新しい物を想像しなければいけない、こ
こで政治の話をするのではなく、パーティーのために来たんだ。」私はいまま
でいったことのない、本当に最高のパーティー(の時間)を過ごした。冗談を言
ったり、笑ったり、踊ったり、ウォッカのボトルを持ってきてそれを飲んだり、
本当に信じられないパーティーだった。
 3時間後、彼は突然笑いだし、笑いすぎて息をすることもできなかった。彼
はその時、「敵」と一緒に楽しい時間を過ごしているということに気がついた。
私はロシア語で「兄弟、教えてくれ。何がおかしいんだ」と聞いたが彼はまだ
笑っていたので話せる状態ではなかった。彼は「わかっている?私達がお互い
を破壊してしまったら、こんなに残念なことはないよ。だって、僕たちはこん
なにステキなんだもの!」といった。その時私の頭の中に、まるで明るい照明
がパッとついた感じだった。彼のいう通りです。私達は本当にステキなんだけ
れど、そのステキさが発揮されない時は、私達の完全さが社会の構造によって
抑圧されていることに気がついたのだ。例えば学校。学校に行って小さなイス
と机に座り、手を挙げるようにいわれ、先生に答えを教わる、それから会社に
行かなくてはいけない、たぶんあまり重要でない、面白くない仕事を長い時間
しているかもしれない。上司と一緒に飲みに行っているかもしれない
 西側の制度を採用した国にこの問題はある。私達が新しい人生のゲームを始
めたら、どんなことが可能かを考えた。今のゲームはたくさん金を稼ぎ、大き
な家に住み、お金持ちになったらたくさんの資源をなるべく自分のところにた
め込む、取り寄せる、そういうゲームですよね。
 その代わりに私達が新しい社会経済教育システムを作り、それぞれ自分自身
であり得る、それぞれの人がその人らしく生きる事を、お互いにサポートをす
るようなシステムを作ったらどんなことが可能か、そんなことを考えた。
 本当は何か別のことをやりたいと思っているが、他の仕事をやっている友人
を持っている人はどれくらいいますか?いましていることよりも、本当は他の
ことをしたいんだけど、という人を知っている人はどのくらいいますか?たぶ
んこの中にいる人は、そんな友達が1人くらいいるのではないですか? だか
らベストゲームのアイディアは、すごくシンプルなゴールだが、とても大きな
ゴールだ。ゴールというのは平和、健康、豊かさ、公正さということを201
2年までに地球上にくまなくもたらすものだ。10のルールがあるが、これは
10年間かけて、テストして作ったルールだ。もし私達すべてがこのルールを
実際の生活で、一瞬一瞬本気でやったら、ベストゲームのゴールに到達できる
と思う。田中優さんもさっきおっしゃっていたが、すごく大きな社会システム
の中で、一瞬、毎日できることを少しずつやっていくのが私のゲームだ。

 1.本当のことを話す(ウソをつかない)
 2.他の人が本当のことを話している時、それを認める
 3.愛と尊敬に基づいて行動する
 4.たどり着いた道を、よりよいものにしてから進む
 5.奇跡が起きると信じる
 6.楽しいと感じることをし、やっていることに喜びを見いだす
 7.あるがままの自分と、自分が何を思っているかに寛大でいる 
 8.良き友、良きチームメートでいる
 9.自分が引き起こした問題を片づけ、教訓を学び、先に進む
 10.ベストゲームをよりよくアイディアがあったら分かち合う。
 
 この逆が今の世の中である。
 私が来年戻ってきたら、皆さんと具体的なゲームができると思う。こういう
カフェをやっていること自体が、ベストゲームをやっていることになる。これ
にやっていること自体に、どうもありがとうございましたといいたい。

 


☆☆☆☆☆☆☆―――――――――――NO WAR!
夢と希望がある限り   
     私は決して諦めない!!         
      遠藤 嘉則  Yoshinori Endo
        mataro@ss.iij4u.or.jp
  http://page.freett.com/gpwn/index.html
WE WANT PEACE!――――――☆☆☆☆☆☆☆



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