[BlueSky: 4439] 雑:HPより  マナー(良識)マナー(良識)


[From] "gengorou" [Date] Tue, 18 Jun 2002 00:19:12 +0900


ゲンゴロウです。

サッカーのルールについて調べていたら、マナー(良識)
とルール(規則)について、ちょっと面白いHPがあり
ました。。
       ↓
http://plaza18.mbn.or.jp/~nagazumi_sc/hot/06.htm

*******全文引用***********************************

今回は、「規範」という大仰なテーマについてですが、
要は近代スポーツに不可欠の「ルール」と「マナー」
について書くつもりでしたが、現代人の私達にとって
の「スポーツ」、「マナー/ルール」、「フェアプレ
ー」を考える前にどうしても整理しておきたい事柄が
ありますので、それを「番外編」として先に書かせて
頂きます。
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近代スポーツの主要なものは、イングランド、スコッ
トランドの貴族階級によって考案されたものばかりで
す。
ある歴史書によれば、特権階級が富と権力に安住して
宮廷生活に堕した典型がローマ帝国であり、その衰亡
は現代用語でいうところの“3K”の役割を権力者階
級が放棄したことにも大きな原因があるということで
す。
そうした反省から、大英帝国においては貴族階級の師
弟が日常的に心身を鍛え、有事に際しては配下たる民
衆の先頭に立って陣頭指揮がとれる資質の維持を図る
目的で考案されたのが近代スポーツの起源であったと
されます。
当時、同じ様な国家形態であった大陸諸国においてイ
ギリスの様なスポーツ文化の開花が遅れたのは、地政
学的な事情によります。
つまり大英帝国当時の大陸諸国間では、相変わらず国
家間、民族間、宗教信者間の抗争や地域紛争が続いて
おり、スポーツなど必要としない緊張状態があったわ
けです。
これに対してドーバー海峡の海に隔てられた英国では、
かつて日本もそうであった様に至近距離の脅威がない
為、有事に備える為の何かを常に必要としました。そ
れが近代スポーツであったのです。

大陸諸国でもハプスグルク家の閨閥政治等によって諸
国間の緊張が緩和されるに従い、比較的安定した社会
情勢のもとでイギリス流のスポーツを取り入れる貴族
階級が相次ぎました。
その頃の「スポーツ」における「ルール」は、当事者
が上品を旨とする貴族達であるだけに非常に大雑把で
緩やかな、いわばナアナア式のものでした。
当時は「ルール」より「マナー」の方が重視されてい
たものです。

スポーツ・ルールが本格的に必要になって来るのは、
それが大衆化される過程においてです。スポーツの大
衆化はヨーロッパを覆った2つの世界大戦によってひ
きおこされました。
つまり、近代戦争は大量の武器、弾薬に兵員の大量動
員を伴なうものです。この過去に例がないほどの大量
の兵員を組織し、戦力化する基礎手段としてスポーツ
が採用されました。
軍隊の指揮官である貴族達が配下の兵員を教育訓練す
るのに、日頃慣れ親しんだスポーツを取り入れること
は好都合であったに違いありません。

こうしてスポーツは軍隊における訓練科目となっただ
けでなく、その予備軍である若者達、子供達にも適用
され、地域や学校にスポーツ文化の黎明期が訪れるこ
とになります。
こうした過程の中で近代スポーツの伝道者たるイギリ
スの上流・中産階級の人々が大陸においてスポーツ指
導を行い、地元富裕者の出資を仰いで組織的な拠点を
次々に作って行きました。
それらの名残りは、現在もスペインの「アトレチコ・
マドリード」や「ASローマ」の様な名門クラブの英
国風の名前に残っています。

こうしてスポーツがヨーロッパやその植民地へと普及、
浸透しスポーツ人口と団体が激増するに連れて、新た
な問題が生じます。
それは「ルール」が曖昧であった為に、対戦者、チー
ムのそれぞれに自分の都合の良い解釈(初期のスポー
ツにおいては審判などいなかった。)をしては形勢を
左右することが日常的となったので、双方が激昂して
死者が出る騒ぎも多く起こりました。
そうしたスポーツ上のトラブルが原因で本格的な戦争
までおきてしまうことがあったのはよく知られている
ことです。
サッカーにおいて欧州の人々が「ホーム/アウェイ」
という概念に際立った反応を見せるのも、対戦相手の
本拠地に乗り込んで行くことの恐怖が遺伝子的記憶と
して残っているからです。
これではまずいということで、以後何かあるごとにル
ールが定められ、現在の様な国際統一機関によってル
ールの維持・改訂が司られることになったわけです。
現代のサッカーではお馴染みの「イエロー/レッドカ
ード」ですら、それが公に使用される様になったのが、
あのメキシコ・オリンピックからであることを知れば、
現在のサッカーのルールの多くが歴史的にはほんの少
し前から整備されて来たに過ぎないことが分ります。
歴史的考察が長くなりましたが、この様にスポーツは
貴族の嗜みとして生まれ、やがて一般大衆を組織化・
軍事戦力化する教育手段となり、マナーやルースが整
備されるに伴なって鑑賞に耐える体裁を整え、傑出し
た運動能力を持つ選手や優れた指導者の登場により
「文化」として認知され、今では巨大な国際ビジネス
としての姿を併せ持つ様になりました。
しかしそうした現代スポーツにおいてもなお、「マナ
ー」、「ルール」の重要性とそれにもとづく「フェア
プレー」の大切さは失われてはいません。
むしろ、これらの理念はスポーツが私達一般市民の
「文化」であることを証明する道標です。
西洋の一神教の世界には「性悪説」という根本思想が
あります。
西洋の特権階級の人々は自分達こそがこの思想の信奉
者、伝道者であり、愚かな大衆を導く者であると唱え
ます。
しかし、その実は彼らが自らの特権を維持する為に巧
妙に「マナー」や「ルール」をいじくり回し、現場に
押し付けているのが本質です。
サッカーにおいては、審判員特に欧州のトップレベル
の審判員集団も一種の特権階級であり、彼らの匙加減
ひとつでゲームの形勢が左右される事態も少なくあり
ません。
現在の日本でも“サッカーは格闘技である。”とか
“勝負に勝つ為の狡猾さも学ばねばならない。”とか
“フェアプレー賞などもらって喜んでいるばかりでは
サッカー大国にはなれない。”等という声が多くなっ
て来ています。
しかし、サッカーの様に選手同士の肉体がぶつかり合
うスポーツにおいてはその当事者である我々が「マナ
ー」を重んじ、「ルール」を遵守し、「フェアプレー」
に徹することにより、一度も危険なプレーや違反のな
いゲームを実現することを理想として取り組まないと、
スポーツを特権階級の手中から取り上げて真の大衆文
化として私達のものにすることはできず、市民大衆の
「尊厳」や「独立自尊」も守られないことになります。
幸い私達日本人の心には仏教や東洋哲学が根本理念と
する「性善説」が根付いており、「大衆スポーツ文化」
の担い手となる精神的下地は持っているのです。
そうした考えから見れば、セリエAの様な熾烈な戦い
の日々にあっても良いマナーを保ち、ルールを守って
フェアに戦い続ける中田英寿やワールドユースの厳し
い戦いの最中に勝敗がどちらに転ぶか分からない終盤
でも、相手選手の負傷に気付き、ボールをピッチ外に
蹴り出してレフェリーにアピールした小野のプレーに
こそ大きな賞賛がよせられるべきですし、少年サッカ
ーの指導者達はそうした事実とその意義を子供達に伝
えなければなりません。
少年サッカーに携わる私達に求められている「志」の
ひとつが「フェアプレーの遵守」であり、子供達と共
に「望ましいマナー」を身につけ、「正しいルール」
を学ぶ姿勢を崩さないことであると思います。
よく“サッカーには民族性と社会水準が投影される。
”と聞きます。
そうであるなら、なおさら私達は「性善説」の民族と
して、どんなに回り道でも、遠く険しい道のりでも
“真のフェアプレー”を目指して行かなければならな
いし、それを抜きにして世界に誇れる「ニッポン・サ
ッカー」は創造できないのではないでしょうか?

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「規範(ルールとマナー)」について考えよう(マナー編)
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前回は、スポーツにおける「規範」に相当する「マナ
ー」、「ルール」、そして「フェアプレー」について
書く前段の理解として近代スポーツの歴史とその主体
者、意味、利用目的等の沿革にふれて来ました。
その結論として、“大衆文化としてのスポーツの目標
は「フェアプレー」である。”としました。
その基本理念に立って、第三のテーマ、「規範」を考
えます。
なお、「規範」という古めかしい言葉は「マナー」と
「ルール」に置き替えて書き進めます。
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「マナー」という言葉を日本語の慣用句に置き換える
と、「社会的良識」ということばが一番ふさわしいと
思います。
“卵と鶏論”ではありませんが、スポーツすなわち私
達サッカーに携わる者がまず心がけなければならない
のは「マナー」でしょう。
「社会的良識」を持つ者同士がスポーツで戦うからこ
そ、そこに「ルールを守ろう」とする気持ちが生まれ、
結果的に「フェアプレー」が行われるのだと思います。
従って、少年サッカークラブにあっては、その支援者、
指導者がまずより良き市民であろうとする心がけが大
切ですし、そうした態度でサッカーそのものに接し、
クラブ組織のあり方、指導のあり方を考え、子供達と
向き合わなければならないと思います。
とは言え、私達は「仏様」でも「聖人君子」でもあり
ません。日々の生活においても、サッカークラブの活
動においても“独り善がり”や“勇み足”の連続であ
り、煩悩のかたまりであると言って良いでしょう。

では子供達に範たる処し方は何かと言えば、決して
“開き直らない”ことです。自分の未熟を素直に認め、
“欠点だらけだけれど、自分を見捨てずにより良い人
生を目指して頑張っているよ。”という生き様を示す
ことです。
子供達は完成された人間を「人生の師」とするのでは
ありません。己の至らなさを反省し、少しでもより良
い人格の獲得を目指して努力する人の横顔、後ろ姿を
見て尊敬の念を抱き、模倣し、成長するのです。
所属クラブでは、子供達の自主性を育てようという考
えから、練習開始前の用具の運び出しやサッカーゴー
ルの組立て等に大人が手出しせずにさせようという方
針があります。
しかし、私個人は考え方をやや異にしている為、練習
準備は率先して行います。それは私も子供達も大きな
年の差はあれ、共にサッカーを楽しむ仲間だからです。
コーチとメンバーという立場を超えて、まず“大好き
なサッカーが早くできる様準備を済ませてしまおう。”
という気持ちを第一に考えます。
もちろん子供達をサッカー仲間として認めているわけ
ですから、一緒に準備しなければ注意します。練習が
始まるまでには、私は既に汗びっしょりです。
「マナー」は口ではなく、行動で教えるものだと思い
ます。
練習準備や後片付けひとつでも、コーチ自らが真面目
に取り組めば、遊び回っている子達もやがて手伝う様
になり、いつの間にかそうするのが当たり前になりま
す。
「マナー」というものは考えてするものではなく、行
動に自然に現れるものになってこそ本物だと思います。
そういう意味で、子供達に良いマナーを身につけても
らいたければ、コーチ自らが“きちんと挨拶する。”、
“テキパキと動く。”、“準備も後始末も進んでする。”、
“仲間を大切にし、心を配る。”、“礼儀正しくする”
といった良識的行動を自然にできる様に心がけるべき
です。
そして疲れてズル休みしているところを子供達に見咎
められても、決して開き直らずに“ごめん。疲れちゃ
った。元気が出たらまた頑張るから今は勘弁ね。”等
と応対すれば、子供達は必ず大人びた顔になり、“し
ょうがないなあ。”等と言いながら手助けしてくれる
はずです。
そんな風に無理せず、背伸びせず、より良い姿を忘れ
ない人間関係を子供達と作って行きましょう。
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さて次は「ルール」についてですが、「マナー」の部
分が長くなりましたので、次回「第八回」に回します。


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「規範(ルールとマナー)」について考えよう(ルール編)
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今回は「規範」の2つめのテーマ、「ルール」につい
てです。
少年サッカーの現場において定められ、守られるべき
ルールには大きく2つあり、狭い意味ではサッカーそ
のものの「競技規則」のことであり、広い意味ではサ
ッカークラブの様々な活動について決められている
「約束事」を指します。

クラブの「約束事」としては、毎回の練習日の基本的な
活動手順、担当コーチが決めた練習手順、合宿や遠征そ
の他のイベントごとに決められる行動計画、対外試合に
おいて運営本部が定めた「実施手順」や「申し合わせ事
項」があります。
こうした類のルールは適用の対象となる「活動」が安全
にかつ効果的に遂行されることを目的としているわけで
すから、その為の手順と考えれば良く、それを正しく理
解して行動できるかどうかは関与する人の心がけ(=マ
ナー)で決まります。
従って、この類の「ルール」はあまり微に入り細にわた
って決める必要はなく、必要最低限度で簡潔明瞭を旨と
すべきです。
そうしてクラブ全体があまり約束事でがんじがらめにな
らずに各自の主体的な判断で臨機応変に動ける様にして
こそ、子供達の自主性や自立心を育む環境になると考え
ます。

さてもう一方のサッカー自体の競技規則についてです。
スポーツは「ルール」に則って行われてはじめて、正々
堂々たる戦いになるとは思いますが、私達はともすれば
“ゲームの勝敗”や“競技の公明性”にこだわるあまり、
少年サッカーにおいても大人達やプロの世界の様な意識
でルールを考えていないでしょうか?
ごく最近の例では、’99ワールドユース決勝戦で日本
代表のゴールキーパーが「オーバーラン」の反則を適用
されるハプニングがありました。
対戦した両チームのほとんどのメンバーが実際には既に
プロのクラブと契約している選手であるとしても、年代
的にはA代表の2階層下に位置し教育的配慮があってし
かるべき選手達でした。
ゲームが落ち着かない状況でこうした微妙な判定が攻撃
側、守備側に及ぼすことも考え合わせ、本来であればゲ
ームを中断して注意だけで済ませるべき局面であったと
思います。
少年サッカーの場においても特に低学年のゲームではゴ
ールキーパーがオーバーランしてしまったり、ペナルテ
ィエリアのすぐ外でボールをハンドリングしてしまうこ
とがままありますが、こうした場合にただちに反則とし
て厳格にルールを適用するのはいかがなものでしょうか?
確かに“ルールに関する理解はクラブの練習で徹底して
おくべきだ。”という考え方もあるとは思いますが、ク
ラブ内の練習と対外試合の状況では子供達の緊張感も随
分違うと思います。
ゲームの流れを決定付ける状況でない限り、そうした微
妙なファウルに関しては一度目は注意、説明してからや
り直しをさせて、それでも繰り返す様なら反則ととるス
タンスで良いと思います。
もちろん5、6年生になっても基本動作に反則がある場
合には厳しくルール適用して構わないと思います。
また、危険行為に対するルールの適用は厳格かつ速やか
に行われなければなりません。
少年サッカーのゲーム中には、後方からのスライディン
グタックル等のあからさまな妨害行為、危険行為も見受
けられますが、手を使っての進路妨害やシャツ、パンツ
をひっぱる等プロサッカーの悪い面を真似した行為も目
につきます。
攻防の焦点以外のところでこうした悪質ないやがらせ行
為が行われる場合には副審のレフェリングに依存するし
かありませんが、基本的には主審が常に良いポジション
にいてこうした違反行為を見逃さないことが大切です。
審判講習の中で必ず教わる技術のひとつにピッチ内を対
角線に行き来する技術がありますが、それを重視し過ぎ
てボールの奪い合いが遠い逆サイドにあっても完全な対
角線上だけを動いているレフェリーがいます。
そうではなく、ピッチ内の対角線はあくまでも基準線と
考え、より攻防の局面に近いポジションに移動して正確
に状況判断をしなければなりません。
たとえそれが低学年の小人数制のミニコートであっても、
同じです。
センターサークルに立ったままで顔だけ左右してレフェ
リングする等は論外です。
またコーチの立場では、単に“こうしろ。”と結果だけ
を教えずに、何故そうするのか、そうしてはいけないの
かを折に触れて説明し、理解させる必要があります。
時折、チームのメンバーが何人も同じ様にスローインの
ファウルをおかすチームを見受けますが、これ等もスロ
ーインに対する正しい知識を教え込んでいない証拠です。
攻撃や守備に対する理解もしかりです。
例えば、攻撃においては中央突破からのミドルシュート
あり、サイドから切れ込んでのシュートあり、センタリ
ングあり、ロングシュートありと多彩なほど攻めやすく
得点の可能性も高いわけですが、何度も相手を押込んで
ゴール前を固められた時にどうしてロングシュートやサ
イド攻撃が有効なのかを子供達に理解させなければスキ
ルは開発されません。
ただ機械的に教わったプレーを繰り返すだけのメンバー、
チームになってしまいます。
オフサイド・ルールについて子供が疑問を投げかけて来
た時にもコーチは要領良くその意味と目的を説明できる
素養を身につけている必要があります。
現代っ子は早熟です。
従って頭から強制してもなかなかうまく動けない傾向が
あります。
ですから、年齢により理解力はまちまちでもコーチは常
にメンバーの疑問に真摯に応える姿勢と子供の身につく
正確で要領の良い説明能力を磨く必要があります。
“いいから、言った通りにしろ!”等と突き放してしま
うのは自らコーチの役割と責任を放棄していることにな
ります。
以上の様に、サッカーにおいてもコーチやレフェリーが
競技規則を正しく理解し、かつそれが適用される側の少
年達の置かれている状況を考え合わせて、十分な教育的
配慮と安全優先意識にもとづいてトレーニングを行いゲ
ームをコントロールすれば、「ルール」は本来の意味を
発揮し、子供達のインテリジェンス、スキルの向上に役
立ちます。
−−−−−引用おわり−−−−−−−−−−−−−−−−














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