[BlueSky: 4371] 虫は虫なり (愛とはなんだろう・・・)


[From] "gengorou" [Date] Fri, 7 Jun 2002 00:30:41 +0900


環境問題を考えるときに、「愛」を考えない人にも、
「愛」を考える人の存在で、「愛」は避けて通れない
ようなので、「愛」について、私なりに考えた過程の
ことを投稿します。(ゲンゴロウ)

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虫は虫なりに一つの考え(愛とはなんだろう・・・)
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1.私は、愛を知らない

「愛」や「思いやり」「親切心」などの言葉を口にする人
に対して私たちは、まるで、それらを持っているような錯
覚を覚えてしまうときがあります。その誤解が生まれない
ように最初に言っておきたいのですが、私は「愛とはなん
であるのか?」を知りません。
私が、この中で「愛」という言葉を使うのは、それについ
て考えたいからで、私は「愛」とは何であるのかが、よく
分かっていません。

2.考え方について

「愛とは?」と構えて考えてみると、自分が分からないと
いうことが、よく分かります。おそらく、私だけでなく、
誰もが、改めて「愛とは?」と考えると、「?」と思うの
ではないでしょうか。。。
私たちの誰も、「愛」を感じて、その感じは知っているの
ですが、いざ、「それがなんであるのか?」と考えると、
もともと持っているものだけに、分からなくなるようです。

「愛」という字が使われた様々な言葉がありますが、愛に
は、はたして幅広い意味があるのでしょうか。。。
私は、どうも、「愛」には様々な意味はないような気がし
ます。愛が使われた言葉を見てみると、愛を使用しては、
いますが、「愛」を説明した語句はありません。

 【例】
   愛情・愛憎・愛撫〈あいぶ〉・愛慕・恩愛・慈愛
   ・親愛・寵愛・溺愛〈できあい〉・母性愛・愛人
   ・愛欲・求愛・相愛・愛好・愛唱・愛読・愛用・愛惜
   ・割愛・愛護・愛校・愛国・愛蔵・無辺の愛・友愛
   ・友情・友誼<ゆうぎ〉・母性愛・父性愛・博愛・隣人愛
   ・仁愛・情・恋愛・純愛・敬愛・熱愛・盲愛・偏愛
   ・性愛・同性愛


しかしながら、それらの言葉に共通して見える「事柄」が、
もしもあるのなら、もしかすると、その「事柄」によって、
「愛とはなんであるのか?」が分かるかもしれません。

 私としては、今のところ、まったくとりつく島もない状
況なので、ある方法を取りたいと思います。
私は、物事が、皆目わからない場合には、それを考える方
法の一つとして、「とにかく、様々なことをランダムに、
思い浮かべるだけ思い浮かべて、そこに妙な事柄が出てき
たら、それを足がかりに考えよう」とします。
そういう「思考の方法」が、私にはありますので、今回も
そうしようかと思います。

愛は、なんとなく「人と人の関係に関わること」で、「人
が人に何かを与える」様なものらしいので、そこから、ま
ず手始めに考えてみたいと思います。

3.「与える」と「受ける」とは切り離せない行為

「愛」は「与える」ものなのだろうか?それとも、「受け
る」ものなのだろうか?と考えてみると、「愛」は、「与
える」とか「受ける」という行為に分解できないような気
がしてきます。「与え、受け取る」という行為が、一つに
なっているときに「愛」が生まれる予感がします。

このことについて、もう少し考えを進めてみます。。。。

たとえば、「与える」という行為を考えてみると、「与え
る行為」を行うためには、他者が必要で、その他者の「受
け取る行為」が必要になるので、「与える側の人間」が、
意識していようといまいと、そこには、「与える側の欲求」
が内包されており、「与えることを認めてもらい、受け取
ってもらいたい」という意味になるような気がします。
繰り返し言うと、「与える行為」には、人が意識してもし
なくても「受け取る」という行為が必要で、二つの行為は
別々には存在できないのではないでしょうか。

  #「与える」という行為は一種の「巧みな欲求
  # の形」にもなりえる可能性がある。

次に、「受ける」という行為について考えてみると、、
「受け取る」ためには、やはり、他者の「与える」という
行為が必要になるので、やはり、「受ける」と「与える」
とは、切り離しては成立させることは出来ないようです。

4.言葉の変換

ここで、寄り道になるかもしれませんが、すこし実験を
してみます。。。

「与える」という行為に「欲求」という感情を入れて考え
てみると、それは「受け取って欲しい」になります。また、
「受ける」に対しても、「欲求」を考えると、「受けるこ
とを求める」になり、「与えて欲しい」になります。
つまり、「欲求」である「求める」という感情を用いると、
なぜか、
「与える」は「与えたい」→「受け取って欲しい」になり、、、
「受ける」は「受けたい」→「与えて欲しい」になります。
これは、他者への強い「願望・欲求」が、「与える」「受
ける」には、内在していて、その為に、もう一対の行為を
導くようです。

  余談:もしかすると、前者の「与える」→「受け取っ
     て欲しい」は欧米的で、後者の「受けたい」→
     「与えて欲しい」は、日本的な心情かもしれま
     せん。結婚を申し込むときに、欧米ではプロポ
     ーズという言葉を用い、日本では求婚という言
     葉を使いますが、その言葉にも、この様な方向
     性が含まれていないでしょうか。

そう考えると、「愛」とは、どうも、人と人の関係の間で、
「受け取って欲しい」と「与えて欲しい」がみごとに成立
して、一致完結した場合の呼び名の様です。そして、その
時に生まれる、幸せ、悦びの名称でもあるようです。

ここまで考えて、、私には、どうも、「愛」という「もの」
は、実は「人の行為」の事では「ない」のではないか、と
いう感覚が生まれて来ます。

5.愛の光と色

私には、どうも、「愛」とは、「私たちが感じた色」の様
な気がしてなりません。「愛」は「行為」ではなく「色」
とか「光」のようなもの、つまり「光彩」の様なものでは
ないかと。。。

この私の感じを、分かってもらうために、比喩を用います。

酸素と水素は物質的な存在です。その酸素と水素が交わる
のは現象です。さらに、その二つの物質が反応するのが炎
(燃焼)で、その結果、現れるのが「光」や「熱」です。

このことを人と人の関係に当てはめてみると、人と人は物
質です。人の心は現象です。その心が織りなす事柄は反応
の様です。そして、その結果生まれるものが、光で、それ
が、「愛」のような感じを、私は持ってしまいます。

別の例で説明すると・・・。

父親と息子がキャッチボールをしているとします。
父親がボールを投げる。息子が受け取る。そしてボールを
息子は父親に投げ返す。それらの一連の行為は、与えるも、
求めるも、二人には同時に起きています。「与える」と
「受ける」という二つの行為が同時に起きたとき、キャッ
チボールをしている二人や、キャッチボールを見ている母
親の心に生まれる光、その自らの中に生まれる光や熱を、
人が感じた時の「色(感覚)」が、私には「愛」のような
気がします。。

つまり、「与える」「受ける」とか、「求める」を加えて
出来上がった「受け取って欲しい」「与えて欲しい」とか
は、「愛」そのものでは「ない」のではないでしょうか。。
(行為そのもので愛は生まれない。。。)

さらに、ここまで考えてくると、私が感じるのは、
人の「行為」で、「愛」の色を持つときは「受け取って欲
しい」と「与えて欲しい」が同時成立したときではないか
と。。(恋人同士が見つめ合うときのそれは、愛の相互作
用を求めていたり、確かめ合っている時で、まだ、愛の
時ではないと、私は思う。それは、愛を恋うときではない
かと。。つまり、恋。。)

「愛」は、行為を個別に分解した行為ではなく、「キャッ
チボール」のように、人と人の関係において、二人の二つ
の行為が見事に同時に為された時に、その事柄を二人や、
他者が、見て、知った時に感じる「光彩」のようなもの、
それが「愛」と、人々に呼ばれたのではないのかと、私は
思ってしまいます。(感じなので、思うとしか言えないの
ですが・・)

  −−−余談:物と物の衝突−−−

  ところで、この「愛の現象」である「一つの事柄が二人の
  人間の間に同時に起きたときに、心が感じる光彩色のよう
  なもの」ということは、物と物との衝突に起きている現象
  を連想させます。物と物がぶつかる時、そのぶつかるとい
  う現象は、どんなに時間を細分化しても、その二つの物質
  にとっては同時です。
  しかし、三つの物体が衝突するときには、決して同時は起
  こり得ません。三つの内、必ず一つは、後回しになります。
  実は、私は思考においても、思考には2分岐しかあり得な
  いと考えています。この事と、「愛」に起きている事は、
  まったく無関係ではないような感じがします。(で、衝突
  でも光が生まれる・・・・)

  −−−余談:人間存在と愛−−−

  人の存在を私が考えたとき、「人は他者の存在を通して自
  己を知り、自己を知ったことで他者を知る」という連鎖反
  応的な相互影響による存在の発生があると思うのですが、
  「愛」の発生も、かなりその状況と似ているように感じま
  す。「愛」は「人間存在の原理」に深く関わっているよう
  な気がしてなりません。

6.未熟な愛について

人には、「一方通行の決めつけたい愛」や、「愛を求める時の
愛」が多くあるようです。確かに、それらも「愛」と呼ぶのか
もしれませんが、それらの「愛もどき」の言葉によって、実は、
「愛」が俗っぽくなってしまって、本来の崇高な「愛(双方向
の愛)」が分からなくなってしまっているような気がしてなり
ません。人にとって「愛」は、まだまだ、始まったばかりで、
人のそれは、まだ未熟だからなのかもしれません。
(愛を道具に用いて、「愛があれば良い」は、間違い。。
 「愛している」という言葉も、「愛を受け取れ」という意味
 になり、妙な言葉ということになる。)

7.慈愛、無償の愛

今、私は、かなり独断と偏見で、「双方向の関係が成立した
ときに色づく、それが「愛」」だと、考えているのですが、
それは、思考の方法の一つです。
独断と偏見で、ある仮説を立てると、そこに「おかしい」と
思われることが、必ず生まれます。その「おかしい」と思え
ることを探し、その仮説に修正を加える事で、物事が見えて
くる可能性を追っています。

ここで、「なんとなく、おかしい」ということが、浮かんで
きます。それは、「一方的な行為」にも「愛」があるのでは
ないかという、ことです。
例えば、愛と言うと、特に崇高な愛と言われる代名詞に、
「無償の愛」とか「慈愛」といったものがありますが、こ
の「愛」の形などが、まさに、一方通行の行為に見えてしま
います。これについて考えてみます。

  無償の愛・・・相手のためにした行為に対して、報酬
         を期待しない愛。
  慈愛・・・・・いつくしみ愛すること。また、その心。

○無償の愛について

まず、「無償の愛」についてですが、この愛では「みかえり」
のようなことを、与える側の人間は求めませんが、実は、相
手に与え、相手が受け取るという双方向性はあります。
ただ、この場合の「愛」には、受け取る側には、受け取った
という意識がないだけです。なので、「二者の間に生まれる
愛」と同じとは言えませんが、「与える」「受け取る」とい
う双方向の行為はあり、愛の形には違いないと思います。
ただ、無償、つまり見返りは、相手からはもらうことは出来
ませんが、自らの中からは、大きな見返りを貰えると、私は
思います。自分から自分へ与えるものは、次の慈愛で触れま
すが、人にとってかなり進化したという意味で、高度な「愛」
の形だと私は思います。
崇高だとは、言い切れません。孤独に耐えても与える愛とい
う意味であるなら、崇高だと思います。

  # もしも、「双方向の愛」が、生まれるほどに人間の
  #「愛の形」が進化したならば、もしかすると、これら
  # の言葉は、消え去るかもしれません。

○慈愛について

次に、「慈愛」についてなのですが、私は、この愛こそ、あ
る意味で、崇高な愛だと思っています。
「慈愛」は、マスターベーションのようなものだと、私には
思えます。

マスターベーションと言ってしまうと、一般的には間違った
行為とか、イヤラシイ行為と思われてしまうかもしれません
が、私にすると、それらは「自己完結存在行為」という、
「他者の存在なくしては存在することが出来なかった人間が、
進化した結果、自らが、自己の中に生み出す他者によって、
自らを存在せしむる行為」と考えられ、その行為は、精神的
な人間の、かなり高度な心的な行為であり、なおかつ、精神
的な自己が自己のみにおいて自己を存在させうる行為として、
私は捉えています。

自慰(masturbation)が、self-arousalとか、play with one-
selfと言われるように、慈愛も、自己自身(self)という行
為として考えることができると私は考えます。
その意味で、慈愛などで生み出される愛は、他者に愛ある行
為をしながら、自らの中に、他者との相互関係によってもた
らされる「愛の光」「誰にも知られることのない光」を感じ
ることだと思います。その「愛の色」に、私は、無色透明な
光を感じます。私にはその後光、後輪を見る力がないので、
色は見えないようです。

確かに、自慰という「セルフマインドコントロール」的な行
為は、「他者の存在によって自己を存在させる存在確立」か
ら考えると、寂しくもありますが、今、人類の存在確立の方
向は、この「自己完結存在」の方向にあるような気もします。
しかし、そこには、無色透明な自らの中から生まれる光によ
って自らが照らされている情景が見えるだけで、他者との喜
びに満ちた「相互愛」はないように感じはします。
他者には、この時、喜びは生まれていないことが多いようで
す。

8.相互関係が生まれやすい、いくつかの状況

「無償の愛」の典型的なものとしては、子に対する母親や、
父親の愛があります。多くの親は、幾つになっても我が子を
慈しみます。ところが、実は、「双方向の愛」を常に待(ま)
っているのは、子どもでもあるのです。
例えば、赤ちゃんの持つ「求める愛」です。このような「愛」
がなければ、親の愛は、子どもに受け入れられず、相互関係
を持つことが出来ません。

愛の相互性には、持続性はそれほどなく、一瞬の場合が多い
のですが、その一瞬において、片方が与えたがり、もう片方
の人間が受けたがるというような状況は、なかなか生まれに
くいものがあります。しかし、この場合に、相互関係が成立
する状況が4つ考えられます。

○ 一つは、二人の内、一人が、常に与えたがっており、も
  う一方の人が一瞬受けたがるときに、相互関係が成立す
  る場合です。

○ 二つ目は、一人が常に受けたがっている状況で、もう一
  人が与えたいと思っているときです。

○ 三つ目は、二人の人間が両者とも常に、相互関係が成立
  しやすい状況にある場合です。

○ 両者は、常日頃は、与えたがっても受け取りたがっても
  いないが、何かしらのきっかけで、相互関係が生まれる
  場合。(満月の夜?)

赤ちゃんと母親の間には、三つ目の「相互にその状況が常に
ある状況」で、とても、愛が生まれる機会が多いことになり
ます。

ちなみに、男女間の性愛の営みは、様々なカップルごとに、
この4つのタイプがあるようです。
男性の発情に、女性が常に合わせているのかもしれませんし、
その逆で、女性の発情に男性が合わせることもあり、また、
両者、常に相互関係を持ちたがっている場合もあるかもしれ
ません。

9.愛は、何を与えるのか?

ここまで考えてくると、「あれ?」と思うことがあります。
それは、私の疑問の中にあります。私は度々、「与える」
「受け取る」「与えたがる」「受けたがる」「与えてもら
いたい」「受け取ってもらいたい」と言ってますが、、
その相手は、一人の人であったり、複数の人であったり、
また、物であったり、動物や植物であったりします。
つまり、人間はあらゆる物事に、「愛」、すなわち、「与
える」「受け取る」を、行おうとしたり、しているのです
が、、一体、「何を?」与えたがったり、受け取りたがっ
ているのでしょうか。

そう考えると、ここまで考えてきたので分かったのかもし
れませんが、全てのことに共通して与えたがったり、受け
取りたがっているその「もの」とは、どうやら、「思い」、
すなわち「こころ」のような気がしてきました。

10.「愛」という文字

なんということでしょうか、、その答えは、「愛」という
字に、もうすでに書かれていました。。

私は、愛を考えている時に、「与える」とか「受け取る」と
いうことについて、それを足がかりに考えてきました。
先にも、気が付いたように、「与える」ということは、
「受け取ってもらいたい」という謙虚な意味に変換できまし
た。そして、「受ける」という言葉も「受け取りたい」とい
う意味に変換できました。。
この「受ける」の、「受」の字の中に「心」という字を入れ
た字が、「愛」だったのです。。

結論づけてしまうのは、まだまだ早いのですが、どうも、
「愛とは、心を受け取ってもらいたい、受け取りたいという
 気持ちであり、また、その気持ちを受け取って貰えたり、
 受け取れたときに、人の心の中に、生まれるもので、なお
 かつ、それらすべてに関する事柄」のようです。

11.「人間存在」と「愛」の関係

人はなぜ、愛を求めるのでしょうか、「愛」とは、「心の
受け渡し」に関係していると考えると、「愛」こそ、人間の
存在原理である「人間は他者の存在によって自己を照らし
存在させ、その自己が、他者を照らすことで、他者の中に
自己を芽生えさせ、さらにその他者の中の自己が・・・」
と、連鎖的な相互存在確立の原理があるのですが、愛、すな
わち「こころの受け渡し」こそが、その存在原理に、必要不
可欠な「媒体」であるようです。。
こうして、愛が人間存在と深い関係にあるのなら、私たちが
愛を、真に知るためには、自らの「存在」すなわち、「心の
構造」そのものを知るときかもしれません。大変に複雑な事
柄が、「愛」には含まれているようです。しかし、あえて、
簡単に言ってしまうならば、、、、
「人は愛(心の受け渡し)なしには存在できない」というこ
とでしょうか。。。。


ゲンゴロウ
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メールアドレス gengorou@m08.alpha-net.ne.jp
   人間物語・・・存在・時間・意識
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/gengorou/book/ningen.htm
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