[BlueSky: 4209] ものごとの理解の仕方とコトバの役割


[From] Minato Nakazawa [Date] Wed, 22 May 2002 01:50:40 +0900

中澤@山口です。

4月に異動して以来,雑用は減ったのですが,なぜか多忙でMLにも
ご無沙汰してしまっています。が,このところの議論の展開を読んで
いて,ちょっと感じたことがあるので,いわずもがなのことかも
しれないと懸念しつつ書いてみます。要約すると,もし共通理解に
到達するために議論をしているのなら,意識的に丁寧な言葉遣いで
丁寧に説明しませんか,という呼びかけです。

 議論の目的が共通理解を得ることだとすると,これはなかなか難しい
ことです。そもそも,ある問題についての共通理解が可能になるために
必要な前提条件として,そこで使われる概念を共有することが,どうし
ても必要です。

 ところが,ヒトの世界認識の方法としては,複雑すぎるナマの自然を
そのまま受容することは通常していません(たぶん,脳の機能として,
常にそれをすることは不可能でしょう)。一般には,まったく馴染みの
ないものについては,現実からその特性をもっとも良く表すと考えられ
る情報を抽象しようとし,何らかの意味で馴染みのあるものについては,
もともと持っている認識の準拠枠に当てはめて不要な情報を切り捨てて
みるのだと思います。ここで,馴染みのあるものというのは,名前がつ
いているもの,コトバで表現できるもの,と言い換えることもできると
思います。

 たとえば,水分子といったときに,水素原子2つと酸素原子1つが水
素結合した化合物という準拠枠があって,それを想像するわけですが,
世の中に実存するモノとしては混じりけのない水などというものは存在
しません。水道の蛇口をひねって出てく水が,蛇口ごとに,いえ,同じ
蛇口でも朝一番のときとたくさん使った後では成分が違う(つまり水分
子に混じりこんでいる成分が違う)のは明らかです。もっといえば,
(青空MLを立ち上げる前に参加していた環境論MLの主催者の社会
学者の方が,川を流れている水とそれをコップに汲んだ水では「水質」
が違うと論じられていたのを思い出しますが),観察者の感じ方は,
周りの状況や観察者自身の状態によって違うのもまた明らかです。

 さらに,川を流れている水の時間軸にそっての変化とコップに汲んだ
水の時間軸にそっての変化を考えれば,確かに物理化学的な水質にも
違いが出てきます(溶存酸素濃度など顕著に),汲んだ瞬間には川を
流れている水のある性質を代表していると仮定して,コップ(というか
実際にはサンプル容器ですが)に汲んだ水を分析するということを
水道局はやっていますし,マスメディアが水質悪化とか論じる場合も,
その分析結果を使うのが普通ですね。なぜなら,この仮想的な水質は,
たしかにある意味で真の水質の一断面にはなっているし,数量化されて
いて,他との比較や経時的な比較がやりやすいからだと思います。

 いいかえると,川を流れている水の実体についての概念を共有する
よりも,コップに汲んだ水を分析して得た数値という意味での水質
概念を共有する方がずっと容易だから(というか,現実問題として
前者は不可能で,たとえ映像が見えても,匂いとか周囲の雰囲気とか
音とか手触りとかまで再現することは難しいし,受け手の脳が違う
ので脳内に形成される像はほぼ確実に異なるでしょう),断面を
切り取って「水質」の物理化学的性状の話をすることに意味がある
のだと思います。水についての議論をするときに,本当に実物とし
ての水の話をすると,共通理解に達することは相当に難しいことに
なるでしょう。

 しかしもちろん,環境問題を解決するには,主体としての各個人に
とっての環境問題を解決しなくてはいけないわけです。先に概念を
共有しにくいと書いた,実体の方が真の問題なのです。しかし,それが
難しいからといって投げてしまうわけにはいかないので,少なくとも
数値として抽象された断面のレベルでは共通理解に達したい,という
のが当面の目標となるのだと思います。これはあくまで当面の目標
であって,受け手それぞれ異なる実体としての環境を(本当に理解
することは難しいのだけれど),できるだけ想像してみた上で議論
をすることは大事だと思いますし,そこがなければみんなが幸せに
なるような解決には至れないでしょう。

 いろいろな実体があることを想像できるようになるためにも,個別
事情を見たり聞いたりすることは役に立つと思うので,その水準での
議論も大いにするべきだと思います。しかし,この水準での議論は
いわゆる「情」の部分にかかわるので,脳の中の情動をつかさどる
部分を刺激しやすいのだと思います。だからこそ,ここでは,より
いっそう丁寧な言葉遣いが必要になるのではないのかと思います。

 とくに,めったにないことや特別な能力がないとわからないことは
余計に想像しにくいので,その概念を共有しようとか,共通理解に達
しようとかいうのは至難のわざだと思います。読み手の想像力も
もちろん必要だけれども,書き手にも相当な努力が要求されるでしょう。
それでも共通理解に到達できないかもしれないのですが,そういう方向で
努力することで,読み手も書き手も使える準拠枠が増えるのではないか
と思いますし,新しいことに出会ったときに理解しやすくなる(もちろん
謙虚でいないと誤解しやすくなる危険も孕んでいるが)と思います。
青空MLのような場での議論が大事なのは,だからこそ,なのでは
ないでしょうか。

 ぼくはそんなふうに思います。

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Minato Nakazawa <minato@ypu.jp>
山口県立大学看護学部 公衆衛生学・看護健康情報学
Phone 083-933-1453 / FAX 083-933-1483


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