[BlueSky: 4153] カニと宮本常一


[From] "suka" [Date] Wed, 15 May 2002 03:31:43 +0900

みなさん

   須賀です。

話題になっている「水」の話とは直接関係がないのですが、
なぜか連想してしまうことがひとつあります。

佐野眞一『宮本常一が見た日本』(NHK出版)に出てくる
エピソードです。

・・・生前の宮本に接した人びとはきまって、彼の驚くべき調査
能力をあげるが、それ以上の言を使って、いつもなんともいえない
明るい笑顔で人と接した宮本の人間的魅力について語る・・・

著者の佐野眞一は、宮本常一を民俗学者として高く評価しながら
その呼称をこえる存在としてみているようです。

そして宮本常一をふかく感化した祖父の市五郎について語ります。

・・・宮本の人をとろかすようなといわれた笑顔は、市五郎の人と
動物、人と昆虫をわけへだてしないやさしさによって育まれたと
いってよい。
 宮本は晩年、武蔵野美術大学の教授となるが、宮本を慕って
集まってきた多くの若者によくいった。
「民俗学を志す者は、微塵たりとも冷たい心をいだいていはなら
ない。」・・・

宮本の『忘れられた日本人』(岩波文庫)に出てくる宮本自身の
祖父の思い出を、著者はすこし前のところで引用しています。

・・・春から夏にかけてのころ、溝の穴からカニがよく出てきた。
ヨモギの葉をもんで、それを糸でくくって、穴の口へつりさげて
動かすとカニが出て来てはさみではさむ。それをうまく吊りあげ
る。子供にとってはたのしいあそびの一つであった。つること
には賛成だったが「カニをいじめるなよ。夜耳をはさみに来る
ぞ」とよくいった。そのカニのはさみをもぎとると「ハサミはカニ
の手じゃけえ、手がないと物がくえん、ハサミはもぐなよ」と
いましめたものである。「カニとあそんだら、またもとへもどして
やれよ、あそんでくれんようなるけえのう」ともいってくれた。
そうしてカニを私たちの友だちとしてあつかうようにしつけた・・・。


このおじいさんは、カニをつうじて常一少年にひととのつきあい
をおしえていたのかもしれません。このおじいさんのやさしさは、
たしかに著者の佐野眞一さんがいうとおり、ひとにも動物にも
わけへだてなくむけられていたのかもしれませんが、同時に
何よりもます、目の前にいる常一少年にむけられていたのでは
ないでしょうか。それが「人をとろかすような」笑顔をつくった
のではないかという気がします。

思うに、おそらくむかしは、こんなふうにして子どもをそだてて
いたのではないでしょうか。

それは「カニへのやさしさ」である以上に、子どもへのやさしさ
だったのではないでしょうか。

そのようにしてそだった子どもは、自然に対しても無茶なことを
すすんでやろうとはしなかったことでしょう。

そんなふうにして、カニとあそびながらはぐくまれた心。でも
そのカニは、いつのまにか、どこかに消えてしまいました。
「あそんでくれんようになるけえのう」 と市五郎おじいさんが
おしえてくれたとおりでした。

そのことに気づいて、そんな世界をとりもどしたい、と思って
いるひとが日本にはたくさんいるのだと思います。けれども、
もうカニもおじいさんもいない。つめたくて毎日の生活のなかで
実感できない理科が「環境」のことをかたる。カニのことを
進化で説明しようとさえする。でもなんかちがう気がする。

この亀裂は、思いのほかふかくてひろいのかもしれない。

今では、カニのことをいちばんよくみて知っているのは、カニの
研究をしている科学者かもしれません。ほかのひとたちには、
自分のことばでカニのことを子どもたちにおしえるチャンスが
すくなくなった。それはカニについての知識を科学が独占する
ようになったということ以上に、カニがおじいさんと子どもの
あいだにいなくなったということでもあります。

自然保護を考えるとき、頭からはなれないのはこのことです。

そして「水」についても、もしかしたら同じことがいえるのではない
でしょうか。

もう「水」は、おじいさんと子どものあいだをながれていない。

でも常一少年の笑顔は、まだ想像することができる。

その感情のすきまをながれるようにして、「水」についていろんな
ことが語られているのではないでしょうか。

   須賀 丈



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