[BlueSky: 2700] Re:2694 インドと日本


[From] "akira " [Date] Sat, 30 Dec 2000 19:52:05 +0900

こんにちは、akiraです。

須賀さん:[2694]
>「インドは歴史の長い国で文明と
> して日本が経験したことのないような大きなサイクルをいくつも経験し
> ている、そういうところから学ぶべきことの多い国だと思う」といった
> 意味のことを言ったところ、彼は「インドのデモクラシーからも日本は
> 学ぶことがたくさんあると思うよ」と言いました。そのあとの会話から
> 気づかされたのですが、インドにはたくさんの民族や言語が生きていて、
> そのあいだには歴史的に征服・被征服といった関係もありました。その
> ような国でデモクラシーをおこなうとはどういうことか。想像しただけ
> で、とてつもないエネルギーや活力を必要とすることだとわかります。
> 今のインドの首相か大統領は、10の言語をしゃべるそうです。
>
> グローバルな意識で基本的人権なんてことを考えようと思ったら、まず
> デモクラシーというものをそのくらいのスケールでとらえられる気力が
> 必要なんだな、と感じさせられました。

インドは、いろいろな意味で日本とは対極に位置する国だと思います。

インドのデモクラシーは、独立闘争を戦い抜いて、宗主国イギリスから
勝ち取ったものです。それは、建国の父ガンジー翁に象徴される強烈
なヒンドゥイズム、いや、すべての宗教・民族を超えた「大インド主義」とも
言える、ナショナリズムの高揚でした。それは「インドは素晴らしい!」という
魂の叫びがイギリスを圧倒した、勝利でした。

一方の日本は、第2次大戦の大敗によって、戦前の民族的アイデンティティ
を完全に否定された一億総懺悔、「日本人は間違っていた!」から、
戦後がスタートしました。その民主主義も、自ら戦って勝ち取った物では
なく、戦勝国アメリカの絶対権力、GHQによって、なかば不可抗力的に
上から与えられた物でした。経済システムにしてもしかり。財閥解体にしても
農地改革にしても市場経済にしても、すべて、アメリカという「お上」から
与えられた物でした。

一方、独立後のインドは、社会主義計画経済をみずから選択し、徹底した
保護主義による自国経済の内的成長を基本方針としました。農業を重視し、
工業技術の導入にあたっては、常に自国の主体性を第一に慎重な選択が
なされました。最近では経済の自由化も少しずつ進み、いわば高度経済
成長の時代を迎えています。
しかしその「時代」を享受できている人々は2億から3億。インドの総人口
10億の2〜3割に過ぎません。残りの7〜8億人は依然貧しい農村部に
住み、100年前と大差ない暮らしをしています。
根強いカースト制度、多様な言語・文化・民族。上はアラブの首長クラスの
ド金持ちから、下は石器時代まで、複雑怪奇な多元国家と言えるでしょう。

一方の日本は、東京を中心とした経済・政治・文化・情報・教育・etc・ネット
ワークによって、全国津々浦々まで網羅された一元国家。新たなる階級
社会が成熟しつつあるとは言え、インドと比べたらのっぺらぼうのような
均質社会。ホームレスの人が成人病を心配する、そんな夢のような豊かさ。

インド人は欧米人の生活様式、思考様式に対して、根本的な懐疑を抱いて
います。それは「自分たちをあんなにも苦しめた植民地主義の実行者たち
が考えることなど、絶対にどこか間違っている」という経験的な確信です。
そしてこうも思っています。「今は欧米人の天下だが、いつかは奴らもこける。
いまだかつて没落しなかった支配者など存在しない」これも経験的な確信です。
彼らは実に淡々と、そう確信しているのです。そして表面上は欧米に対して
低姿勢に出ますが、心の底にある自負心は凄まじいものがあり、いざと
なったらアメリカの横車など、剣もほろろに退けます。
インドでは有史以来、実に実に多くの文明が興り、滅びました。実に多くの
侵略者が到来し、去りました。そして、歴史を通じて絶対に滅びなかった者。
それは、大地を耕す農民でした。

一方日本は、江戸幕末の黒船以来、欧米先進国が持つ文明の威力というものに
畏怖し、追従し、模倣し、自らの文化を卑下する。それは、植民地支配を免れた、
という幸運が逆に作用して、欧米が持つマイナス面について自覚的に考える事が
なかった歴史でした。それが、アメリカの物量に対する敗北によって決定的なもの
となり、アメリカの負の象徴とも言える原爆の被害者になりながら、本質的に、
欧米型文明を疑うという事を知らないまま、現在に至りました。

「インドは経済成長著しいと言っても、大部分はその恩恵に浴していない。
民主主義と言ったって、それを謳歌しているのはほんの一握りにすぎない
じゃないか」 そんなぼくの批判に対して、ある知識人は言いました。
「今は我々が花を咲かせる役割を担っているに過ぎない。いずれ我々の文明が
滅びた時、次の時代を担う者は、今農村で大地にへばりつくようにして生きている
一見惨めな、彼らの中から生まれるだろう。10億すべての人が現在の文明を
謳歌し、その威力に依存してしまったら、この文明が滅びる時、10億すべてが
滅びてしまうだろう。だからインドの未来のためにも、貧乏な農民が必要なのだ。
花は次から次へと咲いては散る。けれどしっかりした根や幹があれば、樹が
滅びる事は無い」と。
それは一見傲慢とも言える、差別や格差の自己正当化のようにも思えました。

[2684/2685]で紹介された、生物言語多様性を読んで、ふと、インドを思い出し
ました。生態系の豊かさと言語的な豊かさ、その二つが連関した多様性と安定。
インドは日本に比べて、そんな多様性という観点から見ると、はるかに豊かな国で
しょう。「我々が滅びたら貧乏人が未来を切り開く」という言葉は、生態学における
「パイロット・プラント」を思い出させました。また、明治維新を切り開いた戦場
の主役は、もっぱら名もない百姓や郷士などの下層民でした。
今、日本が戦場になったら、一体誰が戦うのだろう。そうも思いました。贅沢に
まみれて一億総腑抜けになって。この文明が崩壊したら、日本の未来を切り開く
者がいるのだろうか。一億総パニックのどさくさに、貧乏な中国人が大挙して
押し寄せ、日本はなくなってしまうかもしれない・・・

欧米によって普遍的とされた基本的人権や民主主義は、はたして本当に普遍的
であり得るのだろうか? 人類の歴史の多くが、差別社会の歴史でした。それは
アイデンティティが明確に自覚された社会でした。上下男女の差別はあったけれど
それは、明確な役割分担の社会でもありました。
生態系における「ニッチ」の階層構造。社会におけるアイデンティティの階層構造。
インドの社会は「生態学的に見て」日本の社会よりはるかに多様で、生命力に満ち、
安定しているのかも知れない。
我々の、基本的人権を旗印にした民主主義社会は、ヒトのモノカルチャーを
推進する人工的な畑なのかも知れない。人権・平等の名のもとに、すべてを
たいらに均質化してしまう強大なブルドーザー・・・
それは社会から、幹や根のたくましさを奪う事と引き換えの、あだ花。
最近先進国では深刻な問題になりつつある、アイデンティティ・クライシス。
それが、ヒトのモノカルチャー化に起因するとしたら、少なくともインドの貧しい
農民には、決して見られない病状でしょう。

インドを旅して感じた事。それは、「インド人にとっては、現代が江戸時代なのかも
知れない」でした。ごく普通のインド人が持っている下世話な人情味は、まるで
長屋の熊さん八っつぁんのように和める、温かいものでしたよ。彼らは他者に対して
飽きる・倦む・と言う事がないような気がします。それはぼくの経験した範囲で、
貧乏人から金持ちまで、普遍的な印象でした。
特に、物質的にはほとんど裸一貫に近い生活をしている、貧しい農民たちの
底抜けの笑顔。人情。子供たちの瞳の輝き・・・ 

差別を前提とした伝統的階級社会は、本当に人間にとって不幸な社会なのか?
そこに幸福はないのか? 充足はないのか? そこに人間性はないのか?
これはカーストというがんじがらめの拘束の外で傍観している、日本人の戯言
かも知れませんが・・・・

インドという「人間の森」をキーワードにした、雑感でした。
どうもインドに対しては思い入れが深すぎて、いくら書いても書き切れません。
その分考えたはずなのに、文字通り雑然として、まとまりが無いですね(^_^;)
須賀さんの意図した主題からも、大分ずれてしまったかも知れません・・・


それでは、みなさんよいお年を。   akira






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