[BlueSky: 2656] Re:2646 贅沢は素敵だ! ?


[From] "Y.Kuzunuki" [Date] Sat, 23 Dec 2000 15:37:57 +0900

葛貫です。

> 広木さんwrote:
> > 「浪費できる程資源を集めた人は豊かだ」でしょう。
> > 「贅沢は素敵だ」は、普遍的な事実だと思います。

akiraさん:
> 広木さんにとっては、この「贅沢は素敵だ」というデパートのキャッチ・
> コピーのような言葉が、UNIVERSAL REALITYなんでしょうか。
> そしてこの、普遍的な事実、を前提に、科学的に環境問題について
> 考察しているというわけですか?

このあと、広木さんは、
> (↑推奨しているわけじゃないですよ、
> お分かりいただけてると思いますけど念のため。)
と続けていらっしゃいます。
物的、知的、情緒的等々、どの範囲の豊かさを問題にしているのか、
また、豊かさが持続される期間・範囲等の想定も様々なわけで、
「豊かさ」の定義が違っている場合、話は食い違ってしまうわけで・・・。

広木さんが仰しゃりたかったことは、
> 釈迦の人生を否定する気は全くありませんが、
> 「聖職者は詐欺師にとって格好のカモである」
> という言葉もあります。
ということなのでは。

曽野綾子さんの著作を読んできた者、日本財団での活動を見聞き
している者には、教育審議会で曽野さんが仰しゃっていることの真意
を、それほど的をはずさずに理解することができるかもしれないけれど、
結果としてでてきた字面を追っているだけの者には、どのような誤解曲
解もできてしまう。それを旗印に、本人の意図とは全く無関係な方向に
引っ張ることだってできてしまう。

MLの世界では、akiraさんが、私の「実態」を御存知ないように、
私もakiraさんの「実態」を知らず、勝手に自分の都合の良いように
字面を解釈しているわけです。
#言葉から想起されるものが、人によりどれだけ違うのか。
#文字だけのコミュニケーションにより、どこまで須賀さんの仰しゃる
#共通感覚をつくりだすことができるのか、面白い実験かも。

【2573】で、さとうさんが「共同幻想」という言葉をあげていらっしゃい
ましたが、糸井重里さんの「ほぼ日」http://www.1101.com に
田坂広志さんのインタビュー記事が掲載されたことがありました。
http://www.1101.com/marugoto2/index.html

その1回目の中に、
**************
田坂:
複雑系の研究での「カオスのエッジ」は、すごく好きな言葉です。
最も生命的な現象というのは、カオスのエッジに発生するという
ものです。完全な秩序でもなく、完全な混沌でもない、そのちょう
ど中間の、さじ加減のいいところに、生命的な現象が生まれる、
というものです。

議論にもそういうところがあって、あまりにも拡散し過ぎてもだ
めだし、あまりにも「文部省推薦的」な結論もだめだし、ちょう
どさじ加減のいいところで行わなければならない。
その細いエッジみたいなとこに話題を持っていければ、聞いて
いる人々の満足度が高くなる。文部省推薦の授業を聞きに
来ているわけではないから、「AがBだからCです、以上」
というだけではなくて、実は共同幻想の場をつくっているんですよ。
聴衆が帰りのアンケートで、「おもしろかった」「わくわくした」
と100人が書いているときには、その100人が全員、別のことを
考えている。つむぎだせる言葉があまりにもうまくはまると、
全員がおんなじ共同幻想のなかに入るんですけど。
そういう共同幻想をうまくつくりあげるのも、またスキルのような
気がするんです。

糸井 : 宗教にも近いところがありますね。
田坂 : おっしゃる通りですね。

************** 

というコメントがありました。

以前、600〜700番台で「共有地の悲劇」が話題になったのですが、
【690】で、広木さんが仰しゃった
> 過去にはそれを防ぐものが、社会習慣であったりタブーであったりし
> たわけです。
> ただ、それらが通用するのは特定の地域の集団構成員のみです。
> 集団間の移動がかよう に便利になった現在、一体我々は何をすべきか。
> それが問題です。目的は一緒でも指 向するプロセスが違えば、到達点
> は異なるかもしれません。人は皆、用心深くなければいけないのでは?
という言葉、心に残っています。

過飽和溶液に、善き種(善さの定義は難しいですが)を下げ、それを核
にして透明な大きな結晶を創り出すこともできます。
でも過飽和溶液に、振動等、ちょっとした刺激を加えることにより、ワッ
と小さな結晶が析出して、それで、終わってしまう場合もあります。
今は、流す方向を見つけられないエネルギーが内にこもっている過飽
和溶液のような状態が社会にあるように感じられます。

共同幻視を醸し出す言葉、新しい物語に安易に引っ掛かると、こんな
はずじゃなかったのに、ということになってしまう。また、その言葉を発
した本人も、こんなつもりじゃなかったのにと、いうことになてしまうか
もしれない。(まあ、それが、ほとんどだろうけれど。)
指向するプロセスは一緒でも、目的が違う場合もあり得るわけで・・・・。
言葉を発する方も、受けとる方も、用心深くなければならないのだと思
います。

では。





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