[BlueSky: 205] 家庭の「空気」、貧困の定義・・・ Re:200 技術万能論と自由意志


[From] Ken Goto [Date] Thu, 29 Jul 1999 22:22:15 +0900

小宮さん、中澤さん、須賀さん、星野さん、伊東さん、青空MLのみなさん、
                          
                          後藤@帯畜大です。

またまた長文になってしまいました。

(1)家庭の空気とこども
(2)貧困とは何か
(3)日本人の矛盾と「偽善」「自己満足」

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(1)家庭の空気とこども

小宮さん【200】:
> (後藤【195】:)
> >ただ、僕としては、技術万能論がイデオロギーでも何でもなくて、価値
> >中立的なことなんだという思い込みが、理工系の方々ばかりでなく、わ
> >が国の多くの人々に共有されているけれど、、、それはほとんど国家イ
> >デオロギーの「洗脳」に近いんじゃないか、という見解を表明したかっ
> >たわけです。で、もうちょっと昔には、全然別の考え方の方が主流であっ
> >た、ということの例として「我が輩は猫」を持ち出しておいたのです。
>
> 僕自身、技術万能論(と経済成長第一主義)は、日本では既に空気の
> ようなものではないかと思っています(これは偏見かもしれませんが)。
> 特に一般の企業内では、これを批判しようとする意見が聞かれない
> だけでなく、反対しようと思い付くことさえまれではないでしょうか。

この、「空気のようなもの」という表現は分かりやすくていいですね。「空気の
ようなもの」になってるから、それを暗黙の前提にしてしまう。そこが恐い。

家庭での空気は、こどもの価値観やイデオロギー(空気)をつくるうえで、最も
重要ですね。親の生活態度が決めてしまう。

・・・町やテレビから溢れる(イデオロギー)情報による「洗脳」的作用やモノ
の誘惑に対して、どのような見識を対峙させるか?

でも、一般的には、モノを与え続けられてこどもは育った。この傾向は、
団塊世代のこどもぐらいからなのでしょうか?

でも、この空気が日本的空気となったのは、つい最近のことなのだ、ということ
を忘れてはいけないと思います。国家リーダーたちが懸命に浸透させた空気に過
ぎないわけで、戦後の高度経済成長気頃から定着し出してきただけのものです。
その意味で、変えることは不可能ではないですが、非常に困難な過程でもありま
す。

技術万能論(と経済成長第一主義)が人々を豊かにもしないし、幸せにもしない、
ということは、わが国の戦後史で実証されている、と僕は考えます。ただ、多く
の人々にとって、空気のようなもの、になっているので、ホンマかいな、と疑わ
れやすいだろうな、という感じです。

・・・モノによって与えられる貧しさは、モノそのものの快適性なり玩具的性格
のために、不透明になっている、という側面もあるし。例えば、車ね。

> 僕は飢餓と貧困と言った時、ニューヨークのスラムや、アジアの貧しい
> 農民等をイメージしていました。ですから経済発展によって平和がもた
> らされるという言い方をしたのですが、もっと元に帰れば、そもそもその
> 貧困を生み出したものが西洋イデオロギー、ということですね。

アジアの貧しい農民、というイメージ自体が西洋イデオロギー的なものだと思い
ます。この点については、緑の革命について詳しい星野さん【196】あたりに
補足して頂けると、助かります。

(2)貧困とは何か

> >現在40ぐらいの人までは、容易に「昔の」くらしに戻れる、といわれ
> >ています。僕自身、46歳ですが、たびたび申し上げている通り、40
> >年前のくらしの方がとても豊かだったと思っています。
>
> 昔の方が豊かだったどうかはよく分りませんが、確かに今の生活は、
> 豊かと呼ぶには殺伐としているような感があります。日本自体、これほど
> ものがありあまって、世界中の料理が食べられて、みんな不自由のない
> 暮らしをしているはずなのに、中年層の自殺者は増加し、中学生はナイフ
> を振り回し、小学校で学級崩壊が起こっている。やはりなにか今までの
> 方針が行き詰まってきたような気がします。後藤さんが[193]の(3)
> で考察されていること、
大変参考になるホームページを見つけました。立教大学の田中治彦教授のページ
です(↓)。
http://apollo.m.ehime-u.ac.jp/~htanaka/97/tanah9-1.html
↑のページのタイトルは、「「貧困」についての4つの誤り」です。

そのうち、第一番目の「誤り」を引用します(ただし、改行とか記号とか、ちょ
っと変更してあります)。

【1.「貧困」とは「モノや金がないこと」とする誤り

 もちろん収入が低いことや生活必需品がないことは「貧困」の要因である。し
かし、それは「貧困」の一部でしかない。中村尚司は「貧困とは自分ではどうし
ようもない外的な力によって、経済的に従属されている社会関係」であると述べ
ている。

 元国連専門家のジョン・フリードマンは近著(「市民・政府・NGO」新評論)
で貧困を「力」が剥奪された状態として、その力(パワー)として8つを上、げ
ている。それは、
(1)資金
(2)社会ネットワーク
(3)適正な情報
(4)生存に費やす時間以外の余剰時間
(5)労働と生計を立てるための手段
(6)社会組織
(7)知識と技能
(8)防衛可能な生活空間、である。

 このフリードマンの貧困モデルは、貧困がお金だけでなく社会組織から切り離
された「孤独・孤立」や教育レベルの低さ、に起因するという私たちの常識にも
適ったものである。また、空間や時間がないことを「貧困」の要因としているこ
とは、お金がある日本人が今一つ充足感を感じていないことを説明するものであ
る。 】(引用終わり)

おっと、「力」の剥奪については、僕も既に述べていましたね(↓)。

後藤【155】:
> 和尚の「容易に解けない」という文脈に関連して僕が思ったことは、人間一個人
> の社会的力(個人行為が及ぼす社会的効果)の減少です。これも、人類発祥のと
> きを想定すれば容易に理解できると思いますが、個人ひとりの重みが極端に軽く
> なったのが現代社会であろう、と思われます。部族単位で生活していた時代には、
> 個人と群れとの一体感は極めて強かった、と思うのです。現代人からみれば、
> 「都会の気軽さ」がない窮屈な側面もあったと思いますが、個人の社会的力は、
> 群れの存続を握るほどに大きかったといえなくもない、という気がします。
>
>   個人の利己性の「強化」の社会的一因は、個人の社会的力の減少にある、と
>   思います。実際、「俺ひとり、車運転しなくなったって、環境がよくなるわ
>   けじゃない」という論理が大手を振るっています。
>
> 和尚の前段四行にわたる状況説明と「容易に解けない」理由の意味が、僕にはう
> まく理解できませんが、個人の社会的力の減少に伴う、社会的存在感の減少、社
> 会的無力感の増大は、明治維新以来、わが国でも着実に進行して来ていると思わ
> れます。

フリードマンの8項の幾つかの複合が、社会的力(主観としては、社会的存在感)
でしょう。ですから、僕は、直上の文章で、「明治維新以来、わが国でも貧困化
が着実に進行して来ていると思われます」と、言っていることになります。

(3)日本人の矛盾と「偽善」「自己満足」

小宮さん【200】:
> >技術者集団の力はとてつもなく大きいですね。
> >それはまた、エンジニアの誇りでもありますしね。ただ、そのモノ造り
> >が、個人裁量ではなく企業利益の中でのことに限定されている点で、職
> >人とは大きく異なるし、「完全満足」には至らない点でもありますね。
>
> そう、確かに働くことが日本のため、となっていた昔と違い、開発が結局
> 企業の利益という目的に限定されてしまう一般の企業のサラリーマンは、
> 仕事に対する充実感が減っているのかもしれません。

今でも、世の中のために「も」なっているのですが、負の側面も大きくクローズ
アップされてきましたからね。

で、伊東さんのゲームのこと、思い出しました。

・・・テレビゲーム機など、こどもにとって百害あって一利なし、と僕は考えて
いるものですから。

伊東さん、ごめんなさい。科学MLでの、こども教育論に関する僕のメー
ルを読んで頂ければ、僕の真意は理解して頂けるものと思います。決して、
個人攻撃してるわけではないです。

伊東さん【34】:
> それよりもDCとかPSとかのゲームマシンを考えてみると、
> 過去の販売台数が全部動作状態に有ると、原発2基分くらいの、
> 電力消費が有る事になり、結構驚きです。
凄い消費量ですね。エネルギー問題的にも、ゲームマシンて重要なんですね。
ところで、DCとかPSとかいうのは何のことですか?

伊東さん【37】:
> 仕事としてゲームハードの製造に関わっておりますが、
> そろそろ能力的に無駄な領域では無いかと思っています。
> しかし、商品の必要性を決めるのは私では無く、お客さまです。
そう、確かに、消費者はたくさんいますね。そのニーズにこたえているという意
味では確かに「世の中に役立っている」。でも、ゲームマシンが本当に子供のた
めになっているのか、ということを考える人がいたとしたら、負の部分を大きく
感じるのではないでしょうか。僕流に言えば、ターザンごっこをしていてもらっ
た方がずっとよい。そこに矛盾がある。でも、生活のためですから、つくらなけ
ればならない。ここに、男の哀愁も生れるわけですが、この形だけが一人歩きし
ていくなら、世の中はよくならない。

・・・で、消費者のニーズがシフトしていくと、つくる側もそれにあわせて商品
種目を変えていく。

こどものことをまじめに考える空気がでてくれば、ゲームマシンに対する
ニーズも減って来るんでしょうが。

小宮さん【200】:
> 以前、「環境問題に関してことさらシニカルな態度をとろうとする人」
> について話されていましたが、僕はこの、企業内で働く人々(もちろん
> 自分を含めて)が、結局企業の価値観に縛られてしまっている、という
> ことも、このような態度をとる大きな要因の一つだと思います。
>
> 例えば、どこかの海岸が、なにかの理由で埋め立てられようとしている
> とします。僕が、それは自然破壊だ!と反対しても、「じゃあお前は
> どうなんだ?利益をあげるために発展途上国に工場を立て、電気製品を
> 売り付け、自然や文化を破壊して給料を貰っている癖に、なんでそんな
> 自分勝手なことが言えるんだ?そういうことを言うなら、まず自分が
> 会社を辞めて、山にこもればいいじゃないか」と言われたら何も言えま
> せん。結局は利益追求、経済第一主義の企業に生活を委ねているために、
> 環境問題を考える、ということ自体が、自己矛盾に落ち入ってしまうの
> ではないでしょうか。そして、結局人間は人に迷惑をかけて生きるもの
> なんだよ、とニヒリズムに走ってしまう…。企業の経済活動が国益を
> 支えている日本に、環境問題が深く根付かないことの原因でもあると
> 思います。

そうですね。確かになかなか抜け出せられない矛盾ですね。約30年前に、東大
生が(在学したままで)東大解体を唱えたこと、思い出しました。全国的に大学
紛争が盛り上った時代です。学生に社会的元気・活力があった。

でも、似たような(同質の)矛盾は、わが国のすべての人々が抱える矛盾でもあ
ると思います。その矛盾の強さ(客観的レベルでの)が、そのおかれた立場に応
じて異なるだけ、といってもいいかもしれません。

「理想的な」環境保護実践家であっても、原始生活を送らない限り、(主観的意
図はどうあれ、客観的レベルでは)この矛盾を抱えて生活しているはずです。原
始生活を実践することは、山に篭って自給自足の生活を行うことですが、それは
単に一家だけでは実現し得ないことです。他の人間との社会的コミュニケーショ
ンはどうしても必要になりますから、そのコミュニケーションをとる他の人々が
また原始生活を送っていない限り、その一家の原始生活は事実上、「文明」生活
に依拠していることになります。

したがって、原始生活を実践することは事実上不可能、といってよいでしょう。

そうなると、われわれ日本人が個人としてできることというのは、この矛盾を抱
えながらも、この矛盾における力のバランスを、その個人のできる範囲で「環境
保護ないし保全」の方へシフトさせる、ということが精一杯のことでしょう。

多分、シニカルな人たちは、この努力を嘲うかのようにして「偽善だ」と判断す
るのだろう、と思います。

けれども、この矛盾は、個人が自由意志として選択した矛盾では在りません。日
本人として生まれ落ちた瞬間から内包された矛盾です。だから、その個人の責任
ではない。

・・・ただし、環境保護実践家の中には、我こそは、、、と無矛盾的な善人であ
るかのように振る舞う人も、いるかも知れません。

僕が問題にしているのは、そうした各人の個人的問題ではなく、日本人の
おかれた客観的状況と、日本人一般に通底する客観矛盾ですので、ご注意
ください。

このように、この矛盾は個人の責任ではないけれど、この矛盾における力のバラ
ンスをどのように取っていくかという点では、自由意志による選択の余地が残さ
れています。つまり、これは個人の責任の範囲で裁量できることがらになります。
ですから、「偽善」と嘲うひとは、今説明したような矛盾の性格を正確に理解し
ていないものと思います。

しかし、多分、シニカルな人たちは、それは「自己満足」なのだよ、と嘲うかも
しれません。矛盾が解消・解決されているわけではないからです。この意味で、
多分

・・・「多分」を多用してますが、僕自身がこの「シニカルな人」と実際に対話
したことがないからです。申し訳ありません。

シニカルな人たちの裏の顔は理想主義者なのでしょう。俺には矛盾を解消するこ
と(完璧なこと)などできん。なら、このままいこうじゃないか、と。多分、自
身の「個人としての弱さ」を認めたくないのかもしれません。「結局人間は人に
迷惑をかけて生きるものなんだよ」ということを暖かく認めるか、冷たく認める
か、の違いです。

いずれにせよ、個々人が、本人に内在するこの矛盾における力のバランスを(個
人的方法であれ社会的方法であれ)シフトさせていくことを通じてしか、環境問
題を解決することは不可能であること。これは論理的には明らかなわけですから、
「自己満足」であるわけではありません。ただ、先がまだ見えないだけです。


後藤 健
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帯畜大 生物リズム学 Phone (& Fax): 0155-49-5612

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